100年先を見据えたふるさとづくり。キャリア教育デザイナー
株式会社ジブンノオト 代表取締役/キャリア教育デザイナー 大野 圭司氏
兼行 太一朗
2018/09/04 (火) - 08:00

「起業の島」として脚光を浴びる山口県周防大島(すおうおおしま)町。株式会社ジブンノオト代表取締役の大野圭司さんは、島での起業の先駆者として、また、その土壌を耕した一人として真っ先に名があがる人物です。選んだ道は、故郷の100年先をも見据えた次代の育成。「島はまさに飛躍の前夜」と話す、彼にとっての“ふるさとづくり”とは――。

「起業の島」への潮流を生んだ、黎明期からの立役者

瀬戸内海に浮かぶ「起業の島」――。周防大島といえば、地方創生という分野において、その名はもはや全国区といえるのではないでしょうか?

移住者による起業や出店が相次ぎ、島に新たな価値が次々に誕生。季節を問わずに多くの観光客が足を運ぶようになり、その活気がさらに起業家を島へと呼び込む、という好循環を生み出しています。

かつて、みかん狩りか海水浴か、という程度だった島の魅力は、今や枚挙に暇がないほど。「瀬戸内ジャムズガーデン」の松嶋匡史さんはその代表的な存在でもあります。

なぜ、周防大島は起業家たちを惹きつけるのか? その土壌を耕した中心人物こそが、生まれ育った島で自らも起業を果たした大野さんなのです。島で育ち、中学3年という若さで志した“ふるさとづくり”。島の将来を思い奔走するなかで見出したという、彼の「使命」に迫ります。

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故郷は高齢化率日本一。「島おこし」に携わる将来へ邁進

周防大島町は2004年10月1日に発足。それ以前の島は4町に分かれており、その東端にあった東和(とうわ)町が大野さんの出身地です。

高齢化が進んでいた島内にあって、より顕著であったのが同町。彼が生まれた直後の1980年には、高齢化率において日本一(31.54%、同年国勢調査より)となり、その数値は、2000年には全国で初めて50%を超えるというほど深刻なものでした。

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インフラ整備が進んでいるのに減少する人口…。子どもながらに地域の衰退を肌で感じていた大野さんは「なんとかしたい」と、自然に島の将来と自身の将来を重ね合わせるようになります。“島おこし”に関心をもちはじめた小学生時代には、都市経営シミュレーションゲーム「シムシティ」に熱中したのだとか。

「実家が、曾祖父に始まる建設業を営んでいたというのもあるかもしれません。当時はパソコン版のみで、それも日本語版の発売前。言葉の意味も分からず、英語版を苦労してプレイしていました」

仮想とはいえ、まちづくりを実体験しその道へと歩む思いをより強くした大野さんですが、成長するにつれ将来への方向性に悩みが生じます。「祖父、父、そして自分へというレールが見えているのがだんだんと嫌になりました」と彼。

家業である大野工業の継承は、島おこしへの参画においては、一見、近道のようにも見えます。しかしながら、自身の描く将来にしっくりくるものではなく、何よりも「自らの手で敷いた別のレールを」という思いとは大きく乖離していたのです。

中学に進学後、島おこしへの思いはさらに膨らみます。「多くの人の考えを学ばなければ」と、広島や岩国など近隣都市へ足を運んだ際には必ず大手書店をめぐり、新書を中心に参考になるような本を何冊も物色したそう。

「中学3年で出合った『世界の村おこし・町づくり~まち活性のソフトウェア』(渡辺明次著、講談社)という本に最も背中を押されました。必ず島おこしに取り組むんだと、強い決心につながった一冊です」

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「島のことが大好き。それゆえに外の世界で学びたい。井の中の蛙になってはいけない」と、中学卒業後は島外へ。広島県での高校生活を経て、大阪芸術大学環境デザイン学科へと進学します。

そして、卒業制作にあたって手がけたのは、故郷の片添ヶ浜(かたぞえがはま)を舞台にした、退職者のための定住リゾート構想。「世界の村おこし・町づくり」において最も感銘を受けたという、アメリカのカリフォルニア州の「リタイアメントコミュニティ」がベースとなっています。

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「中学3年当時、本を読んですぐに片添に当てはめた自分なりの構想を日記に書き綴っていたんです。美しい浜を壊しながら、島外の企業が開発を進める様子を見て、これでいいのだろうかという思いもぶつけました」

大野さんは、モデルとしての制作にとどまらず、ビジネスとしての事業計画まで構築。研究を通じて周防大島を見つめ直し、故郷が秘めている大きな魅力、将来への可能性を再認識したといいます。

恩師との出合いを機に「島おこし」への思いは再燃

2000年4月、大学卒業後、建設コンサルタント企業へ入社し、設計部へと配属されます。「家業を継ぐ可能性もあるのかも…親の背中にも近づかなければ」はたまた「島おこしのための勉強に」という揺れる気持ちのなかでの選択でした。

「公共事業主体の業務が、どうしても自身の将来に結びつけられずにいました。それならば自ら活路をと、インターネット上でのコンペティションを想定した住空間設計サイトを、新規事業として提案したんです。『受け入れられなければ辞めます』と、たった1カ月の新入社員がですよ」と笑う大野さん。

当時はまだITベンチャー企業が東京で増え始めた時代。30ページにわたってまとめられた企画書に、「進めてみなさい」とトップからの指示を受けるものの、奮闘むなしく「うちの会社でやることではない」とNGを突き付けられます。

自身の描くようなビジネスモデルが受け入れられる場所、さらに己を磨くためには、“最先端”が集まる場所しかない――。2001年、大野さんは東京のインターネットコンサルタント企業へと転職します。

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「最初の1年は営業を担当していました。現在では“あって当たり前”の企業サイトは、当時まだ例が少なく、営業の先々で玉砕を繰り返す日々…。そのうちに、関連企業への出向が決まり、配属されたのは制作部門。ここでプログラミングとデザインを叩き込まれたんです」

そして、「出向先の文野恭男社長は人生の恩師です」と振り返る大野さん。仲間と働く意義を教わり、さまざまな思いを語り合える大きな存在だったそう。仕事に明け暮れるなかで小さくなっていた「島おこし」に対する炎は、日本の行く末や教育などを語り合ううちに、その勢いを再び増すこととなります。

構想のブラッシュアップで見出した「教育」の必要性

2002年、大野さんは、およそ1年間の出向から戻った後、社内での対立をきっかけに退社を選択。フリーランスのWebデザイナーとして、来たる時のために研鑚を重ねることを決意します。

「仕事を勝ち取るために、プレゼンテーションのスキルアップは必須と考え、プレゼン塾へ入塾し、“青春だった”といえるほど、熱く打ち込みましたね。また、2003年には『NPO法人ETIC.』の存在も知り、ビジネスプランコンテスト『STYLE2003』に出場するなどして、自身の抱く“島おこし”をブラッシュアップしました。地域活性化について多くのことを学ぶなかで、“教育”に重要性を感じ始めたのもこの頃です」

前述した中学3年時代のエピソードが示すとおり、文章を書き起こすのが好きだったという彼。2001年から現在に至るまで、日々の出来事や思い、頭に描いた構想など、すかさずノートにメモし続けているのだとか。「教育」という言葉は、翌2002年の段階ですでに記され始めていたそうです。

「地域を再生させるためには、自治体、学校、家庭など、島全体が一丸となった教育が欠かせない、という考えにたどり着きました」

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フリーペーパーの創刊で「島おこし」への第一歩

「事件は会議室ではなく、現場で起きている――」とは、どこかで聞いたことのあるフレーズ。大野さんは、東京での生活が長くなるにつれ「島おこしのために、ここで出来ることは限界に近づいているのでは?」と考えることが多くなり、その度にこの言葉が頭に浮かんだそう。

「Uターンを決断したきっかけは、何のことはない、島を離れた高校入学時に買ってもらったテレビの故障だったんです。1993年から11年間を共にし、相棒のような存在でしたから、やるべきことはやったという区切りのときがきたのだと捉えました」

2004年7月、彼は帰郷のタイミングを島内4町合併、周防大島町発足(10月)の直前に合わせます。
「島の歴史が動き始める躍動感を感じ、新しい波に乗らなければという思いがありました」

いきなり「教育」に携わるというわけにはいかず、島おこしのためにまずは何をすべきか、しばらくの間は実家の大野工業でアルバイト生活を送ります。現場での作業、測量、経理など、同社におけるさまざまな業務を手伝うものの、どうしても身が入らなかったのだとか。

「結局、土木分野に関心を向けることはできませんでしたし、親もそれを見抜いていたのか、継承という話には至りませんでした。やはり、自身のレールとなるべき仕事を見つけようと再認識しました」

2005年2月、大野さんはついに島おこしに向けて第一歩を踏み出します。それは、「デザイン」「書くことが好き」などといった、自身の「得意」と「スキル」を総動員させたフリーペーパー「島スタイル」(A4サイズ、4ページ)の創刊でした。

「リクルートの『R25』をお手本に、島で頑張っている20~30歳代の若い世代や起業家を紹介する内容を企画したんです。わたし自身が島の現状を学ぶためにという意図も達成でき、彼らを紹介することで経営やネットワーク構築の応援となり、そして、さらにUターンやIターン起業家を呼び込むツールにもなると考えました」

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2006年4月には、自身も正式に起業を果たします。「島スタイル」制作に並行して、Webデザイナーとしてインターネットサイト制作を請け負ったり、若い自営業者や起業家たちとともにイベントを企画したり、島のために奔走する日々が続きます。

そうして、周防大島町に、「島おこし」へ情熱を燃やす大野圭司という若者あり――。やがて、島内で一目置かれるばかりか、山口県内でも地域活性化の仕掛け人として知られる存在になっていきました。

取材を通じて感じた課題。起業家養成システムの必要性

大野さんは、「島スタイル」の編集・発行を手がけるなかで、取材対象者の絶対数の少なさに島の将来を重ね、いっそうの危機感を抱くようになります。「やはり教育が必要、起業家が育つ土壌をつくらなければ――」

そんななかで、地元の大島商船高等専門学校(以下大島商船)・岡宅泰邦教授との出会いは、彼にとっての大きな転機となります。岡宅教授もまた島の将来に危機感を抱く人物の一人。大野さんが実現を願う「起業家教育の仕組みづくり」に向けて、流れは一気に加速します。

折しも、文部科学省においては「地域再生人材創出拠点の形成」を前提とする補助事業が公募中。大島商船を拠点に社会人を対象とする起業家養成プロジェクトを、「島スクエア」と題し教授とともに発案し採択され、2008年からの事業開始にこぎ着けます。

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「立ち上げを実現させた後は、事業期間5年間にわたり、特命教授やコーディネーターなどとして『島スクエア』の運営に参画しました。わたしが教壇に立つ際、内容はやはり『プレゼン能力』です」と大野さん。

延べ5年間で、191人が同プロジェクトによる教育カリキュラムを修了し、この内から50人を超える起業家が誕生したといいます。

「挑戦者の“見える化”ができたことも大きかったです。育成システムという核があれば、Uターン、移住志望者が集まってくること、何よりも、あらためて周防大島の引力の強さを再認識できました」

「島スクエア」の理念は島の教育現場にも波及

「島スクエア」プロジェクトの展開は、島の教育現場にも新たな風を送り込むこととなります。大野さんにとっては追い風、町の教育委員会に提案を続けていた、地域とともにある学校「コミュニティ・スクール」が、2010年度より中学校を舞台に実現の運びとなったのです。

彼はコーディネーターとして、教師と協力し授業づくりに尽力。地域の将来を担う生徒に、起業家精神を育んでもらおうと、総合的な学習の時間において、「実践型キャリア教育」に基づいた授業を展開します。

「2010年度から始まって、500人以上の子どもたちに関わりました。進路相談によって、大学で地方創生を学ぶ道を選択した子もいます。およそ50人は周防大島での将来に夢を抱いてくれており、“大野イズム”の継承者といえる存在。そう遠くないうちに島おこしの心強い同志となってくれそうです」と大野さん。

なお、周防大島町立東和中学校での「コミュニティ・スクール」は、キャリア教育優良校として文部科学大臣表彰(2012年)を受けます。彼の島おこしはさらなる注目を集めることとなりました。

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「キャリア教育デザイナー」として描くさらなる夢

島の将来に向けて、「起業家教育」という自身の進むべきレールを見出した大野さん。2013年10月、「100年続くふるさとづくり」にさらなる使命感を燃やし、満を持して株式会社ジブンノオトを設立しました。

ジブンノオトとは、ジブンの「音」=「強みや体得したスキル」をきちんと認識することによって課題をクリアするという意味。さらに、ジブンの「ノート」に日々の出来事や思い、発見を記すことを継続すれば、目指すべき人生の地図が必ず浮かびあがるという意味が込められているそう。

「100年後の島にわたしたちは生きていません。そんななかで発展を続けるふるさとづくりは、教育でこそ成し得られるもの。地域ベースで育まれる起業家精神こそが中核を成すと考えています」

2018年3月現在、“大野イズム”による地域再生への共感は、山口県、さらに全国へと広がりつつあります。島内の小中学校においては年間約120時間のキャリア教育に携わり、山口県や広島県の高校、大学での講師や非常勤講師を担当。さらには、教育コンサルタント、子どもプレゼン塾、各地からの講演依頼など、年間スケジュールはびっしりなのだとか。

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「島に町立大学をつくるのが目標なんです。その礎となるよう、近い将来、廃校となる学校跡地を借りて、教育・研修センターを設立し運営できればと、具体的な構想を練っています」

さらには、瀬戸内が一体となった新たな自治体の在り方、同地域内での統一通貨など、夢を語る眼差しから感じられるのは、どっしりと先を見据えた充実感。

「これからの10年がきっとエキサイティングですよ。地球上の歴史に例えるなら、カンブリア紀。地球上に海ができて、爆発的に生命が増える段階です」

現時点において、すでに全国から注目を集める「起業の島」は、大野さんにとっては、未だ飛躍の前夜という――。次世代の瞳に映るであろう、100年後の島の姿は、世界から注目を集めているに違いありません。

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株式会社ジブンノオト 代表取締役/キャリア教育デザイナー

大野 圭司(おおの けいじ)氏

広島県「学びの変革」講師 山口大学アントレプレナー基礎 非常勤講師 山口県立大学プランニング 非常勤講師 山口県立光丘高等学校プレゼンテーション 講師 周防大島町立小中学校キャリア教育 非常勤講師 一般社団法人周防大島観光協会 理事 周防大島町商工会青年部 部長(2018年度~)

1978年、山口県周防大島町(旧東和町)伊保田生まれ。油田中学校業後、広島県の崇徳高校から大阪芸術大学環境デザイン学科へ進学。建設コンサルティング(大阪)、Webコンサルティング会社(東京)、Webデザイナー(フリーランス)などでの武者修行を経て2004年7月に帰郷。2005年2月フリーペーパー「島スタイル」を創刊し、2006年から社会人対象の起業家養成講座「島スクエア」(文部科学省助成認可事業)の立ち上げに携わり、2008年から2012年までコーディネーターとして運営にも参画。並行して2009年より、周防大島町立東和中学校などで「コミュニティ・スクール」を展開し、2014年~2016年まで周防大島町教育委員会にて同スクールスーパーバイザーを務め「キャリア教育」の浸透に尽力する。2013年、株式会社ジブンノオトを設立し、代表取締役に就任。キャリア教育デザイナーとして、引き続いて「島おこし」に奔走しながら、島外においても次世代起業家教育に積極的に関わっている。2015年、経済産業省中小企業庁「地域活性100(人を育てる)」選定。2018年、同「創業機運醸成賞」受賞。4児の父。

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