絶景を望む世界最高水準の教育研究機関
沖縄県恩納村。那覇空港から車で北上すること約60分。沖縄本島中部の西海岸の海を見下ろす高台に沖縄科学技術大学院大学(以下、OIST)がある。周囲を起伏に富んだ豊かな森に囲まれ、緑の向こうに美しいサンゴ礁を望むこのキャンパスでは、日々、世界最高水準の教育と研究が行われている。
OIST設立の発端は、2001年、尾身幸次内閣府特命担当大臣(沖縄・北方対策、科学技術政策担当・当時)が沖縄に国際的にトップレベルといえる学校を設置する構想を提唱したことである。2002年、当時の総理大臣であった小泉純一郎氏が設置構想の推進を表明。2005年、この構想の推進主体として独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構が発足し、2011年11月に「学校法人沖縄科学技術大学院大学学園」として設立された。この経緯からもわかるとおり、OISTはまさに国をあげての一大プロジェクトなのである。
教職員・学生の数は設立から5年で300名強から約900名に膨らんだ。世界各地からやって来る一流の研究者が増えるにつれ研究活動も活発になり、5年間で取得した特許の数は既に17件、その他170件(*)を申請中だ。ここOISTでは人類を取り巻くさまざまな問題を科学技術で解決すべく、研究者、学生、それを支える職員が一体となり、挑戦が続けられている。
*2016年8月31日現在
沖縄科学技術大学院大学(OIST)
OISTは、国際的に卓越した科学技術に関する教育および研究の実施により、沖縄の自立的発展と、世界の科学技術向上に寄与することを目的に設置された。5年一貫制の博士課程を置く大学院大学であり、現在、35カ国から134名の学生が在籍している。1名の教員に対し約2名の学生という比率で、学生は世界トップクラスの教員による指導のもと、博士号取得を目指す。 「現在人類が直面している課題の解決には、従来の科学分野の枠を超えた新たなアプローチが必要である」という考えから、OISTでは従来の学問間の壁を排除。学部を設けず単一の研究科・専攻のみとなっており、分野の壁を超えた共同研究や交流が推奨されている。また、OISTは日本でも類いまれな学校法人であり、国からの財政支援を受けながらも、自主性と運営の柔軟性が確保された環境にある。研究者および学生は最先端の研究機器を利用しながら研究に励むことが可能となっている。学内での公用語は英語。研究員の半数以上は外国人となっている。
- 住所
- 〒904-0495 沖縄県国頭郡恩納村字谷茶1919-1
- 設立
- 2011年11月
- 従業員数
- 814名(2017年5月現在)
2001年06月 |
尾身幸次内閣府特命担当大臣(沖縄・北方対策、科学技術政策担当)(当時)が沖縄科学技術大学院大学構想を提唱 |
2005年03月 |
沖縄科学技術大学院大学構想の推進主体を設立する独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構法が国会にて可決 |
2005年08月 |
シドニー・ブレナー博士が沖縄科学技術研究基盤整備機構の初代理事長に就任 |
2005年09月 |
独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構発足 |
2011年11月 |
学校法人沖縄科学技術大学院大学学園設立。ジョナサン・ドーファン博士が初代学長に就任 |
2012年09月 |
沖縄科学技術大学院大学博士課程開設 |
2017年01月 |
ピーター・グルース博士が第2代学長に就任 |
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世界の注目を集めるOISTの可能性
「OISTは世界の科学教育研究において、おそらく最も興味深いイニシアチブを掲げ、最高峰の研究大学機関になるという非常に高い志を持っている」。2017年1月に第2代学長に就任したピーター・グルース博士の言葉だ。グルース博士は、遺伝子制御および発生生物学の分野で国際的に著名な研究者であり、2014年までの12年間、ドイツのマックス・プランク学術振興協会(MPS)の会長として活躍していた人物だ。
MPSは国際的に高い評価を得ている科学技術の研究機関で、これまで33名ものノーベル賞受賞者を輩出してきた。欧州において最先端の基礎研究機関で活躍したグルース博士の目から見ても、OISTは大きな可能性を秘めた研究大学機関であるようだ。同氏はOISTを「世界の科学教育研究において、おそらく最も興味深いイニシアチブを掲げ、最高峰の研究大学機関になる」と位置づける。
卓越した科学者と、従来の分野を超えた学際的な研究環境
実際、OISTの研究者や学生の出身地は50を超える国と地域からなり、世界でも有数の人材多様性に富んだ教育研究の場となっている。
先述のとおりOISTには学部がなく、神経科学、分子・細胞・発生生物学、数学・計算科学、環境・生態学、物理学・化学に大別される分野の研究ユニットが約60ある。5年間、ローテーション一貫教育を受ける学生は、所属予定ユニットを含め3つのユニットを経験する。しかも、3つのうち最低1つは専門分野外のユニットを経験する必要があるため、おのずと分野の垣根を越えた視座や知識の幅が広がる。これがOISTの優れた学際性につながっているといえる。
この約60の研究ユニットには、世界各地の権威ある研究所で活躍した経歴を持つ外国人研究者はもちろん、日本を代表する発生生物学者・佐藤矩行博士(2006年紫綬褒章受章、米国発生生物学会「エドウィン・グラント・コンクリン・メダル」受賞)や、分子生物学者・柳田充弘博士(京都大学名誉教授、2011年文化勲章受章)など、著名な研究者たちが在籍している。学生たちは世界を牽引する科学者の個別指導を受け、最先端の研究機器を利用して研究に励むことができるという比類なき恵まれた環境にあるのだ。
世界の科学ジャーナルをにぎわす研究成果と産業界との連携
このような環境だからこそ、その研究成果も次々と高い評価を得ている。近年では「タコのゲノムを解読する(『Nature』)」「ギボシムシのゲノムから考察する新口動物の起源(『Nature』)」「鳥の歌に組み込まれた種の特異性に関する情報がコードされた空白に関わる神経細胞(『Science』)」「脳とカーナビに共通するメカニズムを発見(『Nature Neuroscience』)」「健康長寿の秘密を科学的に解明(『PNAS』)」などの研究成果が続々と世界の科学ジャーナルで取り上げられている。
また2014年6月には、タンパク質を含む高分子を単一分子レベルの3D画像にする技術を用いたビジネスを展開するOIST初のベンチャー企業「沖縄プロテイントモグラフィー株式会社」が誕生。その他、太陽光電池やアルツハイマー病の治療の可能性など、さまざまなプロジェクトの商業化も進められている。研究成果は学術界にとどまらず産業界とも連携して私たちを取り巻くさまざまな問題解決や経済発展に寄与している。
OISTの歴史は始まったばかりだが、今後ますます規模を拡大し、教職員数も大幅に増員する見込みだ。偉大な科学者も次々と輩出されていくことだろう。日本の科学技術を牽引する一大拠点として、ますます世界の注目が集まりそうだ。
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日米両国でのキャリアで培った独自の視座を持ってOISTへ
「ほんとうに、こんな大学は日本に唯一ですよ。この大学は日本国にとっての大きな挑戦でもあります。理科工学において真に国際的な世界トップレベルの教育研究機関の設立が、日本においても可能なのだということを証明するためにできた大学といってもいいでしょう」 と、穏やかな笑顔で語るマチ・ディルワース氏。2015年4月にOIST男女共同参画担当副学長に就任し、現在は人事担当副学長も兼務している。
岡山県の玉野という小さな港町で育ち、東京の国際基督教大学で自然科学を学んだ。その後、米国カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で植物生化学と生理学の分野で博士号を取得。数年間アメリカで研究員として勤務したあと、研究から科学政策の世界へと転身した。研究や研究教育プログラムのための公的資金管理を通じて科学の発展に貢献する道を選んだのだ。
ディルワース氏は30年以上にわたってアメリカ国立科学財団(NSF)や米国農務省で大規模な競争的研究資金プログラムを主導してきた。NSFの職務の一環で、NSF東京事務所長兼在日米国大使館科学技術アタッシェを務めた経験もあり、日本とアメリカで培われた独自の視座を持ってOISTにやって来た。
多様性を尊重し、みんなに等しくチャンスのある教育研究機関にしたい
ディルワース氏は、OISTの魅力のひとつに研究環境の良さを挙げる。OISTには、内閣府から沖縄特別予算の一部としての助成があり、最先端の研究機器がそろう。また、日本では准教授(Assistant Professor)が独立した研究室を与えられることはまだ少ないが、ここでは欧米式に、新しく雇われたばかりの准教授であっても独立した研究室で、学生や研究員を束ねて独自の研究をすることが可能だ。
教職員、学生の多様性も魅力のひとつ。国籍はもちろん、宗教や文化、慣習など実に多様性に富んでいる。そのようななか、より一層推進すべく、男女共同参画推進のためのポジションができた。ディルワース氏はその中核を担う。アメリカの大学における男女平等参画の取り組みは歴史が長く、ディルワース氏はその知識や経験が豊富だ。
現在OISTでは、施設内のおむつ交換台や授乳室の確保はもちろん、教職員の場合は、出張先に子どもを伴う場合には旅費の一部を助成、またベビーシッターをつける費用の一部が補助される。また准教授は、着任から5年目に研究継続のための非常に厳しい審査があるが、出産・育児による長いブランクがあった場合には、その審査を1年遅らせることも可能であるなど、さまざまなサポートシステムが充実している。
センス・オブ・アドベンチャー(冒険心)を持った人とともに成長していきたい
ディルワース氏には、NSF東京事務所長を務めていた間、日本国内で男女共同参画推進のために活躍している多くの人との出会いがあった。OISTの現アドミニストレイティブ・コンプライアンス担当副学長の久保真季氏との出会いもそのひとつ。
久保氏は当時、文部科学省にいたが、それ以前に1年間NSFに在籍したことがあり、その縁から親交があった。OISTの男女共同参画担当副学長のポジションができた際、久保氏から応募を勧められた。「OISTについては構想の段階から注目していました。これは日本離れしたすごい構想だなと思ってずっと興味を持っていたのですが、尊敬している久保さんからお声がかかって、挑戦してみようという気持ちになりました」と当時を振り返る。
実際に来てみると、その魅力は想像以上だった。世界トップレベルの科学者の育成、沖縄の地域振興など素晴らしい理念のもと、申し分のない教育研究環境を実現し、どんどん大きく成長しようとしている勢いのある組織。さらに、そこで教職員が思いをひとつにしてそれぞれの経験を提供し、協力して働いている実感が持てることが最大の魅力だという。
研究者のみならず、職員間でも他大学などとの活発な交流があり、常に新しい目標に向かってチャレンジしている。「これからも『センス・オブ・アドベンチャー(冒険心)』を持った人、OISTの理念に共感して自分のバックグラウンド、経験を活かしたいと思ってもらえる人とともに成長していきたいです。わくわくしています」
沖縄科学技術大学院大学(OIST)
男女共同参画・人事担当 副学長
マチ・ディルワース
岡山県生まれ。国際基督教大学にて学士号取得(自然科学)。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校にて修士号および博士号取得(植物生化学、生理学)。1979年?1981年、アメリカ国立科学財団(NSF)生物学・行動科学局アシスタントプログラム・ディレクター。1981年?1990年、米国農務省競争的研究資金課、準プログラム・マネージャーから副課長。1990年?1997年、NSF生物学局プログラム・ディレクター。1997年?2007年、NSF生物基盤部長。2007年?2010年、NSF東京事務所長兼在日米国大使館科学技術アタッシェ。2010年?2011年、NSF数学・理化学局副局長(代理)、2011年?2012年 NSF国際科学技術室長。2012年?2015年、ハワイ大学ヒロ校 総長室上級顧問。2016年より現職。
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システムエンジニアからコンサルタント、人材育成のプロへ
最初に入社した企業では、プログラミングをゼロから習得し、システムエンジニアとしてキャリアを積んだ太田由香里氏。バブル期で、周囲は大手企業のOLになっていくなか、これからはコンピュータ(当時はまだITという表現がなかった)が面白いのではないかという勘と、「何か人と違うことをやりたい」という冒険心からこの道を選択した。
1997年、プライスウォーターハウスクーパースコンサルタント株式会社(買収によりアイ・ビー・エム ビジネスコンサルティング サービス株式会社を経て日本アイ・ビー・エム株式会社)がSE経験を持ったコンサルタントを探していると聞き、コンサルティングは未経験だったが持ち前のチャレンジ精神で転職を決意。これが今のキャリアの礎になっていると振り返る。
オラクル社のERPをソリューションとしたコンサルティングプロジェクトに従事していたが、2006年からプロジェクト業務の傍ら、リーダーシップ研修の社内講師や新入社員研修の企画から実行まで担当するようになり、「人を育てること」の手応えを感じ、興味が深まった。2010年、研修部門への異動を希望し、プロジェクトマネジメント領域の育成担当マネージャーを務めた。
2011年の東日本大震災をきっかけに「これまで得てきた知識や経験をこれからの人にギブバック(還元)したい」という思いが強くなり、2014年、アマゾンジャパンに転職。札幌と仙台のコンタクトセンターの人材育成担当マネージャーとして、人材開発・育成領域でさらなるキャリアを積んだ。
満を持してOISTへ
実は太田氏、日本IBM在職中に、あるキャリアフォーラムでOISTを知って興味を持ったという。当時はまだ限定的な職種しかなく、応募できるものはなかったが、「ユニークで最先端」と「沖縄」というキーワードに引かれ、組織が大きくなればいずれ自分に合ったポジションができるのではないかと、ずっとチェックしていたそうだ。その予測は現実となり、募集職種は日に日に増え、「現在のポジションの募集が出て職務内容を読んだら、これまでのキャリアや持っているスキルの9割以上がフィットしていました。『これだ』と思いましたね」と笑顔で語る。
OISTで太田氏が担当するのは業務アプリケーションの導入や運用保守などのプロジェクトの統括管理。ニーズに応じた新しいシステムを導入することはもちろん、導入後も各部署や教職員がスムーズかつ安定的に使いこなすための改善やサポート、部門間の調整などを継続して行う。
設立から5年、ある程度の規模まで組織は拡大した。これから先の5年、10年のOISTの成長を支えるためには、すべてのITレイヤーを安全で盤石にする必要がある。それぞれ違った研究目的を持っている世界各国からの研究員や教職員の要望をうまく調整しつつ強固なシステムを先回りして構築することが、難しさでもあり面白さでもある。
ベストな環境でさらなる飛躍を
「『Can Do(できること=能力)』『Should Do(やるべきこと=責任)』『Want Do(やりたいこと=内的動機)』。私はこの3つのバランスが崩れると、パフォーマンスが低下したり体調が崩れたりするので、常にこのバランスに注意していますが、OISTに入ってからはほんとうに『いい感じ』で調和していますね」と語る太田氏。
毎日が海を見ることから始まる。平日の天気のいい夕方は、オフィスの外に出て水平線に沈む夕日を数分眺めてから仕事に戻ることもある。また昼休みには、人材育成領域のキャリア形成のなかで取得した「日本語教育能力検定」資格で学んだことを活かして、日本語を学習中の教職員や研究員との交流ランチに参加することもある。世界的に活躍している研究者がとても身近にいるなど、一般企業に勤めていたら経験できなかったことが経験できるというのも大きな魅力。
もともとスキューバダイビングが趣味で、沖縄には20年以上前から毎年のように遊びに来ていたが、住み始めた当初は車社会に不便を感じ、東京や札幌の利便性と比較していた。だが今では違う。週末は車で少し移動しただけで「『オフ感』をすごく感じられる」ため、リフレッシュできてメリハリがつく。入校以来、プロジェクトマネージャーとしてハードワークが続いているが、今の状態こそ3つのバランスが健全な状態だという。
OISTでの2年を終えようとしている今は、足かけ3年の大規模プロジェクトの終盤で、新システムの全面稼働直前という太田氏。「今後はこれまで以上に教職員の声を聞き、顔を見て、みんながよりハッピーになるための最高のサービスをチームで提供できるような仕組みづくりに挑戦したい」と、仕事のクオリティーとチームのパフォーマンスのさらなる向上に意欲を見せた。
沖縄科学技術大学院大学(OIST)
インフォメーション・サービス・セクション エンタープライズアプリケーションサービスマネージャー
太田 由香里
東京都生まれ。1984年、株式会社SPECに入社し、プログラミング未経験からシステムエンジニアとしてキャリアを積む。その後、外資系数社の社内SEを経て、1997年、プライスウォーターハウスクーパースコンサルタントに入社。オラクル社のERPをソリューションとしたコンサルティングプロジェクトに従事する。2002年のIBMによる買収により、IBMビジネスコンサルティングサービス、日本IBMにて引き続きオラクル社製品を中心としたプロジェクトに従事。2006年から、リーダーシップ研修講師、新入社員研修の企画から実行を務め、2010年7月に研修部門へ異動。プロジェクトマネジメント領域の育成担当マネージャーを務める。2014年3月、アマゾンジャパンのセラーサポート部門に転職、札幌センターに在籍しLearning&Performance Managerとして札幌と仙台のコンタクトセンターの人材育成を担う。2015年6月より現職。
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