大原孫三郎 ー倉敷から世界的企業を興し、先端的な労働環境改善を達成した実業家ー【後篇】
木下 斉
2018/09/21 (金) - 08:00

アメリカでは様々な大学の多くが実業家たちの資金によって設立されたり、様々な図書館や先端的な研究所なども、時代時代に成功した実業家たちが設立した財団などの支援によって拡充されてきています。近年でいえば、ビル・ゲイツが設立しているビル&メリンダ・ゲイツ財団が、300億ドルを超える総資産を擁し、世界中の貧困問題解決や解決困難だとされる病気の治療法開発など様々な分野に取り組み、成果をあげています。一方で日本はそこまでの実業家がおらず、寄付文化も定着していない、といったようなことが多く言われ、どうしてもそのような公共的なものは行政が取り組むものと考えられたりしがちです。

しかし、かつての日本においては各都市の教育、医療、福祉など多岐にわたる分野で、地元の実業家が自らの私財を用いて解決することが多々ありました。明治、大正、昭和初期などには各地には実業家が多数おり、彼らが社会的発展に寄与した学校、病院などが設立されていたのです。地方の実業家たちは経済を作り出すだけでなく、地元や日本社会における社会的課題解決にも大いに貢献していた時代があるのです。その中でも、生み出された富を社会問題解決のために投資し続けた人物として、岡山県倉敷市に生まれ育った実業家・大原孫三郎の存在は際立っています。

地方企業が日本全体の社会構造へ大きな影響を与え、彼の支援によって様々な研究者も育成され、さらには現在の倉敷の産業、文化、医療の多様な面で大原の足跡が残る所以を解説したいと思います。

>>>大原孫三郎 ー倉敷から世界的企業を興し、先端的な労働環境改善を達成した実業家ー【前篇】

人生観を変えた、日本児童福祉の父・石井十次との出会い

日本において、孤児院を岡山の地で作り、児童福祉の父は呼ばれる石井十次。同じ岡山ということもあり、孫三郎は石井十次と出会い、単なる支援者という関係を超えて社会問題や福祉、教育などへの問題意識を共有する仲間でもありました。大原は石井十次への支援を行い、岡山孤児院では日露戦争の戦災孤児、東北地方の飢饉に対応した無条件孤児受け入れなどを実施するなどしています。

実業家である孫三郎は、全く違う感性をもとに社会慈善事業に取り組む石井十次を尊敬するとともに様々な支援を始めます。さらに自らの事業活動を通じた労働者福祉、支援事業への関心が高まり、様々な社会問題を対象にした研究所の設立運営や日本初の西洋近代美術・美術館の開業、留学支援などを行っていきます。

大地主としての責務を感じて設立した、農業科学研究所

孫三郎は学生時代の放蕩さから義兄を亡くすに至り、岡山に戻った頃、東京時代に接点のあった友人が一冊の本を送られ衝撃を受けています。それが江戸末期、600もの農村を再生した二宮金次郎の記録を弟子が綴った「報徳記」です。明治天皇が地方成長のために有益であるとして、地方役人にも配ったことを契機にして明治時代のベストセラーとなったものです。

孫三郎はこの本を一気読みした上で、大原家が持つ農地の小作人たちの生活を実際に見て回り、その生活の困窮具合に何か自分でできないかと取り組みを始めます。実際に報徳記には、二宮金次郎は農村再生をする際には、まずはそこの地域の小作人たちの生活具合と作物の収穫状況、農地や土地などといった環境を自らの足で周り、さらに過去の生産量についても長期間にわたる租税資料などを集めて分析をすることが記されています。孫三郎は庄屋の家系であり、多くの小作人が自らの農地で生活している状況に強く関心を持ったのでしょう。

孫三郎は、大正三年には「大原農業研究所」を発足。まず大原家の宅地であった四千坪と田畑・百町歩(約99ha)などといった私財を投じます。岡山特産の桃やぶどうの品種改良研究とともに、世界的な農業科学に関連する文献を収集し、さらに研究員へ積極的な海外留学支援を行いました。桃やぶどうといった付加価値の高い農作物を普及させて農業者たちの所得改善につなげるだけでなく、農業分野のより根本的な生産性改善に向けた研究を支援したわけです。岡山県は今でも日本有数の桃とぶどうの大生産地となっています。

時代に逆らう、大原社会問題研究所

さらに孫三郎が大正八年、大阪に開設したのが「大原社会問題研究所」です。
テーマは「貧乏をどう防ぐか」。研究所の設立にあたり本当に自由に研究するには、政府よりも民間の研究所の方がよいと考え、孫三郎は私財を投じて設立します。世間では、「社会問題」というものをテーマにすること自体が問題視される時代であったことから、文部省の高官からは「社会問題」という文字を外すように言われたりしました。つまり政治・行政が関わると中立的な研究ができない、自由に研究者が研究活動に向き合う環境は自らが私財をもってこそできる、と考えていたのでしょう。周囲の反対を押し切り、社会問題の名前をそのままに、さらに自らの責任のもとに研究するという意味で「大原」の名前をあえて入れた研究所名を採用しています。

当時は経営者・資本家は搾取する側であり、ある意味では「貧乏を量産する」存在と見られていた時代でもありました。だからこそ、孫三郎はあえて貧乏をどう防ぐか、と向き合わなくてはならないという社会的使命感を持ち、極めて経営者・資本家に批判的な研究者などとも積極的に面会を行い、意見を聞き、それを事業に反映させようとしました。その姿に日々資本家を批判していた人々も大変驚き、大原は他の実業家とは違うという評価となったわけです。

孫三郎は研究所設立に際して設立費用として三十万近くを寄付し、その後は毎年八万円を運営費として拠出。学卒の銀行員初任給五十円の時代というのだからその金額の大きさがわかります。

そして本研究所は現在も法政大学大原社会問題研究所、という形で引き継がれています。

現場を持つからこそできる、労働科学研究所

さらに孫三郎は大原社会問題研究所から「労働の医学的・心理学的研究」に関する研究を切り出し、労働科学研究所を設立します。実際に、倉敷紡績の工場を多く抱える環境を生かし、実際の現場を対象にした研究を積極的に取り入れることを目指します。そのため研究所は倉敷紡績万寿工場の工場と社宅群などが集積するエリアに建設。実際に、工員たちが社宅から出て工場に向かい、そして仕事を終えて、工場から社宅へと帰る際の最後比較研究など、従来にはない生データをとれるようにしたのです。

労働者を道具のように使う前提で、科学的管理手法をもとにした生産性と向き合わせるのではなく、労働を科学して人権を尊重しながらもより生産性を高められる環境を模索したのが孫三郎でもありました。実際にこれらの研究は実業にも好影響を生み出します。もともと孫三郎が就任前は業界平均よりも劣っていた倉敷紡績の生産性は労働科学研究の現場への導入によって著しく改善、業界平均よりも上回るようになります。結果として、社員給与も業界平均を上回るようになり、会社全体の成長にも寄与していきました。そして本研究所も時代により紆余曲折がありましたが、独立した民間研究所・大原記念労働科学研究所として続いています。

東洋一を目指した、倉敷中央病院

さらに孫三郎は自ら、市民に開放される病院建設に乗り出します。

倉敷中央病院の開設にあたり、「治療本位(研究目的でない、真に患者のための治療)」「病院くさくない明るい病院」「東洋一の理想的な病院」という3つの設計理念を掲げます。デザインされた病院らしくない病院デザインと共に、当時最新の医療機器を集め、優れた人材を揃えた病院は、倉敷のみならず広域の医療環境改善を成し遂げ、今日も地元の方々を救っています。

日本発の西洋・近代美術館・大原美術館

そして、我々が倉敷に訪れ直接孫三郎の足跡を感じられるのは、倉敷市にある美観地区です。そこには孫三郎の生家や、労働環境改善に向けて室温が高くなりすぎないように調整するために蔦を這わした倉敷紡績所をリノベーションしてホテルとなった「倉敷アイビースクエア」などが見られますが、その中でもひときわ存在感を放つのが、大原美術館です。

孫三郎は生涯支援した洋画家・児島虎次郎に予算を構わず購入できる西洋絵画を買い求めさせて、日本人芸術家たちの学習機会となるようにと西洋絵画展を開催し、大好評でした。児島が購入した作品はモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品で、作家から直接購入したものもあるなど貴重なものばかり。今となっては世界的に有名ではあるものの、当時の日本ではその価値は全く理解されていませんでしたが、孫三郎は児島の目利きに全幅の信頼をおいており、コレクションを拡充していったのです。

しかし児島は早逝してしまいます。孫三郎は児島の功績を称えるとともに、それらの美術品を多くの人が見られるようにと1930年に大原美術館は開業。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年ですから、日本の倉敷で西洋近代美術館を開業した孫三郎の先駆性が理解できるかと思います。あのリットン調査団の調査員が倉敷に滞在した際に、孫三郎のコレクションを見て「なぜ日本の地方都市である倉敷にこれだけのコレクションがあるのだ」と驚いたという逸話もあります。

先駆的すぎたこともあり大原美術館は当初は来館者数ゼロということもあったと言います。それでも孫三郎は経営を支えながら継続し、今では年間約30万人が来館、累積来館者数3500万人を2017年に数える日本有数の私設美術館となっています。

実業家が地域から社会を変えた。

当時、社会的認知が低い農業科学、社会問題、労働科学、先端的な患者第一主義の医療施設などは、行政予算も乏しい明治、大正、昭和初期には税による多様な社会環境改善に向けた投資が議会などでも理解されず、実施困難だった時代と言えます。

これらの分野を自らの私財を投資して切り開き、地元のみならず日本、海外に至るまでに影響を与えた孫三郎の功績は彼の実業以上に広く社会で評価されるのにも納得できます。

地方創生においては、実業家たちによる、新たな産業での稼ぎを作り出す力とともに、その資金を効果的に地域発展のために投資する姿勢にも学ばなくてはなりません。その先にこそ、それぞれの地域に即した多様な産業が成立し、良好な社会生活が成立し、真なる地域の発展があるといえるでしょう。

我々は今一度、先人たちから学び、今一度それぞれの地域の未来を考え、行動に移さなくてはなりません。

【参考文献】
城山三郎「わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯―」(新潮文庫)
木下斉「地方創生大全」(東洋経済新報社)

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