平賀源内は2度の“脱サラ”を経験。自分らしく働くため「複業」を実践
SELFTURN ONLINE編集部
2018/11/15 (木) - 08:00

「あの人の、SELF TURN」第4回は、多彩な才能を生かしいくつもの職業で活躍した平賀源内にフォーカスを当てます。平賀源内記念館にて学芸員を務める瀬来孝弥(せらい・たかや)さんにお話を伺ってきました。

平賀源内といえば「エレキテル」を連想する人も多いでしょう。静電気を発生させ医療器具と考えられていた装置を、オランダ人が残した故障品から復元したことで名を残しています。

51年の生涯においては藩務退役という“脱サラ”を経験し、本業の本草学(ほんぞうがく)という薬物学の研究に加え、多様な働き方を実践。本草学者、発明家、蘭学者、戯作者、浄瑠璃作者、鉱山技師、蘭画家、コピーライターと、いくつもの顔をもっていました。『解体新書』を発表した親友の杉田玄白が「非常ノ人」と呼んだほどの並外れた発想力と知識を生かし、近年注目を浴びる「パラレルキャリア」や「複業」を250年以上も前に実現させていました。

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自らを売り込み、長崎遊学で世界の広さを知る

平賀源内は自ら道を切り開いた人でした。

生まれたのは江戸時代中期の1728年。高松藩の御蔵番(おくらばん)の子として、現在のさぬき市志度(しど)で産声を上げました。

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御蔵番は年貢米をはじめとする貯穀の蔵を管理するのが仕事で、下級武士の身分でした。他の藩士の子ども同様、十代の頃から漢学や儒学、さらには藩医のもとで薬草研究である本草学を学びます。

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21歳のとき、父が亡くなると、その跡を継いで御蔵番の任務に就きます。24歳のときにはオランダとの貿易を通してヨーロッパの最先端の知見が集まっていた長崎へ遊学。下級武士に過ぎない源内が見識を広める好機に恵まれたのは、自らの売り込みによるものでした。平賀源内記念館で学芸員を務める瀬来孝弥さんはこう明かします。

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「源内が期待されていたというより、自分で押しかけた部分が強いようです。久保桑閑(そうかん)という医者が長崎で学ぶという話を知った源内は、自分が本草学を教わっていた三好喜右衛門(みよしきえもん)を口説き、桑閑に同行する許可を得ました。いわゆる“カバン持ち”のような感じですね」

自らたぐり寄せた1年間の長崎遊学で本草学や蘭学、医学や油絵を通して世界の広さを知った源内は、高松藩の御蔵番という枠に満足できなくなってしまいます。

26歳のときには藩務退役願いを執筆。今でいう「退職届」を受理されると、 長崎で受けた刺激に駆り立てられるように距離を測定する量程器と方位を図る磁針器を製作し、クリエイターとしての才能を発揮しました。

そして28歳のとき、ひと花咲かせようという野心を胸に江戸に向かいます。

人脈を広げ、主催した全国博覧会は大成功

江戸に移り住んだ源内は、やはり自分の力で道をつくります。本草学者の田村元雄(げんゆう)に弟子入りするだけでなく、身を立てるためのプランを明確に描いていました。

「江戸で過ごすのに必要な身元引受人を見つける狙いもあって、エリートが集まる私塾の湯島聖堂に入門します。そこで人脈を広げたことで人生が大きく変わります。湯島聖堂で学んだからこそ、蘭学者であり生涯の親友となる杉田玄白や、幕府の老中になる田沼意次(おきつぐ)と知り合えたといえるでしょう」

江戸に下って1年、29歳の源内は斬新なアイデアを実行に移します。人を救う本草学の発展を願い、江戸で計5回の薬品会(やくひんえ)を主催。各藩の本草学者に向けて「引札(ひきふだ)」と呼ばれる広告ちらしを送る際は、俳諧の各派が添削や情報交換のために使っていた飛脚便を利用します。発送費用を抑えると同時に、品物の送料は自分が支払うと伝えて参加者のコスト削減も提案しました。

ビジネスパーソンとしてのセンスが垣間見える全国博覧会の開催にあたって、源内の念頭にあったのは「国益」でした。

「薬草や薬になる鉱物の研究は藩ごとに進められていて、その知識を藩外に出すことは禁じられていました。つまり、情報共有ができておらず、実は外国から高いお金で買っている薬も、各藩の研究を突き合わせれば国内でつくれるかもしれない。源内はそう考えました。長崎で日本から多くの金銀が海外に流れる状況を見ていた源内には、このままでは日本が疲弊するという危機感がありました。そうした思いもあったからか、薬品会に関しては幕府の意次から支援を得ることもできました」

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画期的な発想と国益を守るという強い意志に基づく薬品会は大成功。源内は一躍有名になり、3度目の開催を終えた31歳のとき、高松藩に呼び戻されます。

浪人として枠にとらわれない働き方を実践

“出戻り藩士”には薬草園を管理する任務が与えられました。32歳で「薬坊主格(やくぼうずかく)」に昇進しますが、やはり型にはまった働き方はなじまなかったようです。33歳で2度目の藩務退役願いを提出すると、高松藩からは「仕官御構(おかまい)」という処置を与えられます。幕府や他の藩への仕官を禁ずるというもので、浪人としての道を余儀なくされました。

再び江戸に戻った後の人生は決して順風満帆ではありませんでした。36歳のときに秩父山中で石綿、つまりアスベストを発見。これを燃えない布に細工した「火浣布(かかんぷ)」を幕府に献上したものの、技術が追いつかず小さすぎて商売にはできませんでした。38歳のときには資金調達を行い秩父の金山開発に着手して金の産出による一獲千金を狙いましたが、幕府から中止令が出たため頓挫を強いられます。45歳のときには鉄山事業にも失敗。一説によれば現在の金額に換算して20億円もの赤字を出したといわれています。

「貧家銭内(ひんかぜにない)」と自らを自虐的に呼んだ源内は、それでもなお多彩な才能を発揮し、様々な仕事ぶりを続けます。小説ともいえる戯作(げさく)や音楽劇の浄瑠璃を次々と生み出し、気温を測る寒暖計も製作。海外向けの「源内焼」という陶器を発明して故郷志度の陶芸工に製造法を指導したり、本来は革でつくる金唐革紙(きんからかわかみ)を和紙で仕上げる方法を考案したり、象牙に金銀細工を施した「源内櫛」を開発販売したりして生計を立てました。

「源内は収入以上に自分の好奇心を満たす働き方を優先していたように思えます。陶器の製作にあたっては『日本の土をもって唐・阿蘭陀(オランダ)の金銀を取り候』と記していますので、常に国益というものも頭にあったと思います」

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48歳のときに販売したエレキテルも大きな利益にならず、人を殺めて51歳で獄中死。悲劇的な最期を迎えたとはいえ、決まった枠にとらわれず、興味の赴くままに「複業」で生きた源内の選択は、自然体の働き方を考え直すうえで参考にしてしかるべきでしょう。

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文・写真=菅野浩二 Koji SUGENO

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\教えてくれた人/

瀬来孝弥(せらい・たかや)さん

平賀源内記念館にて学芸員を務める。山口県で生まれ、広島県府中市で育つ。広島県福山市の盈進高等学校を卒業後、徳島文理大学へ進学。大学院でも学んだ。現在は母校の徳島文理大学で講演を行うこともある。
平賀源内記念館の情報は下記のとおり。
住所:香川県さぬき市志度587-1
アクセス:JR志度駅、または琴電志度駅から徒歩5分
開館時間:午前9時?午後5時
休館日:月曜日(祝日、振替休日の場合はその翌日)、年末年始(12/29?1/1)
HP:http://hiragagennai.com/

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