【木下斉】戦後のローカル・オープン・イノベーション企業の先駆け「ふくや」
木下 斉
2018/07/23 (月) - 08:00

さて、皆さんは「辛子明太子」好きでしょうか。
コンビニエンスストアのおにぎりでも人気ランキング上位にでてくる「辛子明太子」ですが、日本の伝統食ではなく、戦後になって新たに登場し、あれよあれよと食卓の定番になったものです。そしてその発祥の地は福岡、「博多」なのです。

戦後に新たに作られた辛子明太子がなぜ全国区で有名になり、多くの人に愛されるようになったか。その背景には、地域活性化のヒントにもなるエピソードがあります。

辛子明太子を開発した「ふくや」

福岡にいくと様々な辛子明太子の会社の看板が並んでいたり、売店でも多種多様な辛子明太子が並んでいますが、どこの会社が最初に開発したのか、意外としらない人が多くいます。実は、辛子明太子は「ふくや」が開発し、世に広めたものです。

終戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた川原俊夫氏は、食料販売店を経営しながらかつて釜山で食べた「めんたい」がどうしても食べたいということで、試作を始めます。近所の冷泉小学校の先生などかつて釜山などに住んでいた知人にも食べてもらいながら、試作を続けること数年、独自の「調味液につける」という独自製法を開発し、安定的な辛子明太子の生産が可能になります。

最初は味まだまだ安定していなかったこともあるようで、売れない日々も続いたそうです。
しかし、その後に味も改善し、固定客がつきはじめ、徐々に人気が高まっていきます。特に福岡出張にきたビジネスマンたちがお土産として「辛子明太子」が珍しいということで持って帰り、地域外にも人気が飛び火していきます。

そうすると、それまで見向きもしなかった様々な百貨店や駅の売店などから「うちにも辛子明太子を卸してほしい」という要望がくるようになります。商店としては一大チャンス! となりそうなものですが、河原氏は「生モノだから、責任がとれない。うちは自分で作り、自分のところで売ることだけしかしない」というポリシーで取引を断ったというのです。

特許なども取らず、元祖とも書かず

しかし、それでもあまりに卸の要望が多く、断るのにも苦慮する状況が続いたそうです。
そこで、川原俊夫氏は「あんたんところでもつくればいい」と、数年かけて開発した辛子明太子製法を取引業者などに教えたのです。特許取って他社を排除するどころか、むしろ特許もとらず、さらには調味液でつける製造方法の基本まで教えたことで、次々と辛子明太子を作る店が増加していきます。そして、博多までの新幹線が全面開通する前後で一気にブレイク。今では、数えきれない辛子明太子業者が全国にひしめくようになりました。

川原氏は「明太子は珍味ではなく、漬物と一緒」という名言を残しています。漬物で特許とるやつはおらん、明太子も一緒で皆に作り方を教えて、それぞれの味があれば良いという考え方が、市場の規模を一気に押し上げました。もしふくやだけが辛子明太子を作り、販売していたら、本当に一部の人だけの珍味となり、多くの人が手にとるようなコンビニの具材にまではならなかったでしょう。

そして元祖と書けばと何度も言われたものの、「元祖と書いて旨くなるわけではない」といって決して書かなかったという逸話もあります。常に味の研究をして、拡大していく市場の中で高い評価を受ければ良いという考え方だったといいます。

このようにオープンな経営姿勢によって、ピーク時には辛子明太子だけで1800億円とも言われる一大市場が作られることになります。

九州通販企業の先駆けとしても急成長

しかし拡大する市場の中で、ふくやは売上規模だけをみれば他者に追い抜かれていくことになります。個人商店として経営を続けていたふくやは、その後の経営戦略が問われる時期に差し掛かりました。そして、川原俊夫氏の次の世代が新たな挑戦を仕掛けていきます。

川原俊夫氏の息子、健氏と正孝氏が中心となって当時はまだまだ走り出しの市場であった通信販売事業にいち早く参入します。これまでは福岡に行かないと買えなかった「ふくやの辛子明太子」が買えることが従来からの全国の固定客でも大きな話題となり、業績が一気に伸びていきます。もともと福岡シティ銀行に務めていた正孝氏は、全国的にも先駆的な銀行業務の電算システムへの移行なども実体験として経験し、それらの生産性の高さに気づいていたと言います。それらのノウハウをふくやに持ち込み、独自のコールセンターのモデルを作り、大成功を収めました。

このような取り組みは福岡市内で大変話題となります。この時にも、ふくやはコールセンターシステムなどを隠すことなく、関心持つ人達を惜しげもなく視察受け入れをしました。そして、後に通販事業が続々と福岡から立ち上がります。キューサイ、やずやなど皆が知っている通販企業は、実は福岡の企業です。今や九州全土をみれば約2000億円にものぼるとも言われ、通販王国とまで呼ばれるようになっています。また、特色としてコールセンター大手などに丸投げするものではなく、独自のコールセンターを社内に作り、雇用を拡大することにも貢献しているのも、ふくやの原型があったからとも言えるでしょう。

手本となる「ローカル・オープン・イノベーション企業」の姿

自らが挑戦し、その成果を地域全体に広げて、市場を創造・拡大した上で品質や販売方法を常に革新し続けて業績を伸ばす。まさに地域企業の手本のような経営手法を親子二代に渡り達成してきています。

オープン・イノベーションなどは大企業などが取り組むことばかりではなく、新たな製品開発からその市場創造拡大において「オープネス」が生み出す力は地域産業においても言えることです。

そして何よりビジネスばかりではなく、「ふくや」は博多祇園山笠はじめ地域の祭りなど、地域での様々な若者たちの企画などにも協力・協賛を惜しげもなく取り組んでいます。東京本社の大企業ではお付き合いでお金を出すことがあっても、自らが筆頭となったり、常に見えないところでも後方支援をすることはないでしょう。自らが稼ぎ、雇用を生み出し、税金を収めるだけでなく、地域の次なる産業を作り出し、さらに地域の文化や芸術を支え、次なる挑戦者たちの応援もする。

川原俊夫氏は生前「儲かっている会社でも、必ずしも世間から尊敬されるとは言えない。それは経営者のお金の使い方が悪く、自分のため、家族ためといった私利私欲にまみれている場合が多い体。人に人格があるように、会社にも社格がある。ふくやは高い社格の会社でなければならない」と語っていたと言います。川原氏は財テクを持ちかけられても「そげん儲けてどげんするとか」と一切関心を示さず、法人化すれば節税ができると言われても「お前は道路を歩きよろう。橋も渡りやろう。道路も橋も税金でできとるったい」と納税による社会的役割を語り、亡くなるまで個人商店のまま「ふくや」を経営しています。

「ふくや」のような非上場の小さな商店からスタートした地域企業が、私利私欲ではなく、多くの人を支えることになる数千億円規模の新地域産業を作り出す。このような企業の存在が福岡市の底力の一つと言えるのです。

【参考文献】
川原健「明太子をつくった男」
ふくや「ふくや70周年史」
木下斉「福岡市が地方最強の都市になった理由」

>>>こちらもあわせてご覧ください。
【木下斉】都市発展の「なぜ」は今ではなく、50年、100年前から学ぼう〈第1回〉
【木下斉】隣近所で戦い衰退する都市、敵は外にいると団結し成長する天神/今まで知らなかった福岡市のヒミツ〈第2回〉

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