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アインシュタインの成功は、複業と「自分らしさ」の追求の上にあり
SELFTURN ONLINE編集部
2018/11/07 (水) - 08:00

歴史に残る偉業を成し遂げた人物たちの意外なSelf Turnについて学ぶ「あの人のセルフターン」2回目は、20世紀最大の科学者ともいわれるアルベルト・アインシュタインです。京都産業大学理学部、宇宙物理・気象学科教授の二間瀬敏史(ふたませ・としふみ)さんに伺いました。

「私には特別な才能があるわけではない。ただ燃えるような好奇心が備わっているだけだ」。こう話したのは、光の進み方と重力を扱った「一般相対性理論」で知られるアルベルト・アインシュタインです。今では知らない人がいないほど有名な物理学者ですが、実は定職のない時期もありましたし、友人のコネで役所に勤めていた時期もありました。「燃えるような好奇心」を十分に満たせる働き方にたどり着くまでには10年弱を要しています。

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定職のない不安定な2年間

アルベルト・アインシュタインの求職期間は2年にも及んでいます。早くから一流の物理学者として認められなかったどころか、定職に就くことすらおぼつきませんでした。

「アインシュタインは子どものころから社会に適応できないような部分があって、生まれ故郷のドイツでは大学予備校のようなギムナジウムも中退しています。17歳で入学したチューリッヒ工科大学でも、教授がわかりやすく説明する講義は自分にとって無意味だと考えて、授業には出ず、喫茶店で本を読んで一人で最先端の理論を勉強したりしています。出席率は非常に悪く、教授の教えも無視するため、指導陣からの受けは良くありませんでした」

こう話すのは、宇宙物理学者であり、京都産業大学理学部で教鞭をとる二間瀬敏史教授です。自らの著書『七転八倒アインシュタイン 甦る天才の予言』(大和書房)を引き合いに出しながら、歴史に名を残す物理学者の“セルフターン“時代を教えてくれました。

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1900年、21歳のアインシュタインはチューリッヒ工科大学を5人中4番目の成績で卒業します。上位の3名はすぐに助手になれましたが、教授たちとそりが合わなかったユダヤ系ドイツ人は大学に残れませんでした。

「大学を卒業してすぐ、アインシュタインは職を求めてドイツ中の科学者たちに手紙や論文を送っています。ただ、反応は全くありませんでした。やむなく家庭教師や工業専門学校で数学を教える代用教員、成績の良くない高校生に数学を教える臨時教員を務め、食いぶちをなんとかつないでいます」

正業のない不安定な状況にあっても、「物理学者になる」という意志は全く揺らぎませんでした。実際、家庭教師や代用教員などをこなすかたわら、無名のサイエンティストは精力的に論文を執筆し、夢を追い続けていきます。

公務員時代に発表した論文で道を拓く

転機が訪れたのは1902年。大学の同期による口利きでスイス特許局への就職が決まりました。公務員としての業務内容は、発明品などに関する特許出願の内容を精査し、可否を下すというもの。物理学者という望みの職業ではありませんでしたが、アインシュタインにとっては最高とも言える時期でした。

「提出された書類を読んで、受理するかどうかを決める。比較的決まった流れの仕事であって、時間に余裕もあったので、研究に割くエネルギーを十分に使えたようです。アインシュタイン自身ものちに『上下関係もないし、大学の先生よりも特許局時代のほうが良かった』というようなことを言っています」

安定した仕事と研究に没頭できる時間を見つけたアインシュタインは、世界の在り方に対する知的好奇心をさらに強めます。特許局時代は「オリンピア・アカデミー」という名の勉強会を開催し、友人たちと科学について論じ合いました。業務中に論文を執筆したり、ベルンの物理学者協会でスピーチしたり、物理学で未解決の問題を解いてやろうという野心を形にしていきました。

1905年、アインシュタインは「自分らしく働く道」を自らたぐり寄せます。1年の間に4本の論文を発表。ドイツ科学界の権威者であるマックス・プランクという著名な物理学者が、時間と空間を初めて物理学の対象とし、時間や空間は各個人が定義づけているものにすぎないと証明した「特殊性相対論」と、「質量はエネルギーである」と提示した「E=mc2」を評価したことで、アインシュタインの存在は徐々に知られるようになります。

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生涯300本以上の論文は「自分らしさ」の追求の証し

それから3年がたった1908年、ようやくベルン大学の講師というポストにありつきます。ただし、講義数も給料も少なかったため、しばらくは特許局の局員と大学講師という二足のわらじを履きこなすしかありませんでした。

「1909年にはチューリッヒ大学の理論物理学の助教授になります。夢がかなったわけですが、『特許局をやめて大学の先生になります』と伝えたところ、役所の上司は『冗談もいい加減にしろ』と怒ったそうです。特許局での働きぶりが中途半端なものだったので、教授など務められるはずがないと思われたんですね」

念願の物理学者に転身してからの人生は順風満帆でした。1911年にはチェコの名門カレル・フェルディナンド大学、翌年にはスイス連邦工科大学、1914年には当時理系の大学では世界のトップクラスだったベルリン大学の教授を務めます。1915年には「特殊性相対論」を進化させた「一般相対性理論」を発表。1921年には、「特殊相対性理論」や「一般相対性理論」ではなく、波として知られていた光が粒子的な性質も同時に持っていることを示した論文によって、ノーベル物理学賞を受賞します。求職時代から約20年後の快挙でした。

「アインシュタインの人生は、急に花がぱっと開いたわけではなくて、こつこつと研究を続けていたのが実を結んだ形だと言っていいと思います」

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無名の時期から1955年にこの世を去るまで、地道に書き上げた論文は300本以上。「燃えるような好奇心」を持つアインシュタインの生涯は、どんな立場であれ、自分の可能性を最大限に生かすべく物理学に真摯に向き合った人生でもありました。

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\教えてくれた人/

二間瀬敏史(ふたませ・としふみ)さん

京都産業大学理学部、宇宙物理・気象学科教授。1953年北海道生まれ。一般相対性理論、宇宙論を専門分野とする。京都大学理学部物理学科を卒業後、同大大学院工学研究科の航空宇宙工学専攻修士課程を修了。ウェールズ大学カーディフ校で博士号を取得した。ワシントン大学助手、弘前大学理学部教授、東北大学大学院理学研究科教授などを経て、2016年4月より現職。著書に『七転八倒アインシュタイン 甦る天才の予言』(大和書房)や『どうして時間は「流れる」のか』(PHP新書)、『宇宙人に、いつ、どこで会えるか? ―地球外生命との遭遇』(さくら舎)などがある。

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