地元・山梨のいまを伝えたい。フリーマガジン「BEEK」編集長
堀内 麻実
2018/12/12 (水) - 08:00

「やまなしの人や暮らしを伝える」をテーマに、2013年、山梨県にてフリーマガジン「BEEK」を創刊した土屋誠さん。地元の出版社を経て、都内で就職・結婚・子育て・独立。彼が歩んできた人生にはいくつかの分岐点がありました。そして34歳のとき、土屋さんが選択した道、それは地元・山梨県でフリーマガジン「BEEK」を発行することでした。

転機が訪れるまでは、夢なんて特になかった

山梨県笛吹市。人気の温泉観光地として知られる街の出身である土屋さん。地元の高校・大学を卒業後、実家とバイト先を往復する生活を送る、いわゆるフリーターだったそうです。

「夢なんて特になかったですよ。やりたいことももちろんなかった。ただ、スーツが着たくない!という理由だけで就職活動もしなかったような親泣かせの息子です。毎日をなんとなく過ごしていましたね」

そんな風に当時を振り返る彼が、なんとなくの毎日からソフトウェアさえあればグラフィックデザイン制作が自分でもできることを知り、独学で学び始めたのはこの頃のこと。

「昔から雑誌が好きで、カルチャー誌やファッション誌をよく読んでいました。いつまでもフリーターをしていられないと考えたときに、雑誌をつくる仕事をこれからやっていきたいと思いました」

その後、地元タウン誌を制作する出版社に就職し、デザインはもちろん、企画や営業、撮影にまで携わるようになります。

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「地元の小さな出版社だったからこそ全てを自分たちでやらざるを得ない環境だったのだと思います。でもそれが良かった。僕の原点はここにあるのだと思っています。よく、デザイナーっぽくないよねといわれますけど、デザイナーが出発点ではなかったからだと思います。営業の辛さも学んだし、企画の面白さも学んだ。そして写真やデザインの魅力もここで学びました。今ある仕事の基本の軸は、このときと変わっていません」

地方の若者は、大学進学を機に上京することが多いですが、土屋さんは自身の技術の向上を目指し、25歳のとき遅ればせながら上京を決意。デザイン制作会社に入社することになりました。約2年のスパンで、雑誌編集社、編集プロダクション、デザイン会社など転職を繰り返し、より専門的知識を幅広い分野で学んでいったのだそうです。

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東京で得たスキルを活かし、ローカルでやれることを見つける

デザイン道を駆け上がる一方で、プライベートでは結婚、子どもも授かります。公私ともに安定してきた矢先、世界的な金融危機の影響もあってその当時在籍していた会社が大きく傾きました。土屋さんは、自らの道を考えざるを得ない状況に直面したのです。そして、その会社の社長に直談判し、担当しているクライアントをそのまま引き継ぎ独立することになりました。

「ありがたいことに、過去に在籍していた会社は全て円満退社だったので、独立の挨拶をすると仕事をいただくことができました。独立して3年が経ち、地元へ戻ることを考え始めました。2人目の子どもを授かって、長男も幼稚園を考える時期で、このタイミングで山梨に帰ってもいいかなと思えたんです。デザインの仕事は場所を選ばないので、東京の仕事も山梨ですることができるなと。また、当時ちょうどローカル雑誌がいろいろな県で発刊されるようになっていました。山梨にはまだそこまで出版文化が根付いていなかったので、東京で得たスキルを活かして、自分でも山梨で雑誌づくりやデザインや編集を広めたいと思ってUターンしました」

山梨で住み始めた地は、移住したい街として人気の高い山梨県北杜市。自然と距離がある都内の暮らしよりも、何より自然豊かな場所で子どもを育てたかったという想いからこの場所でのスタートを選んだのだと教えてくれました。

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いくら地元とはいえ、9年のブランクは大きい。土屋さんはローカル雑誌の取材を通じて会いたい人に会い、そこから仕事の輪を広げていく方法をとっていきました。こうして、Uターンした同年、2013年11月、やまなしの人や暮らしを伝えるフリーマガジン「BEEK」を創刊させたのです。

「BEEK」の持つ可能性

「BEEKは広告を入れずに発行しているので、制作するコストは自分でまかなっています。発行し続けることで人との繋がりができること、やがて仕事につながっていくことを信じていたので、自分の広告にもなるとコストは割り切っていました」

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「よく『BEEK』って名前はどういう意味があるのですか?と問われるのですが、特定の意味合いをもたせているわけではなく、言葉の響きや字面で決めました。当時のローカル誌は日本語タイトルが多かったのですが、僕がいろいろ影響を受けた雑誌は英語の名前が多いこともあり、地域を伝えるからこそ英語のタイトルにしたかったんです。つけた当初は受け入れられるか少し心配もしましたが、今はこの名前にしてほんとうによかったと思っています」

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瞬く間に話題となった「BEEK」ですが、土屋さんは自分のスタイルを変えることなく淡々と過ごす様子が伺えます。なぜローカル誌なのかと問うと、
「デザインや編集をもっと暮らしの身近なものにしたいと思っているからです。山梨県は他県と比べても、まだまだそれが根付いていなくて。誰かがやらなければ誰もやらないじゃないですか。家庭や自分の時間を犠牲にしてまでもやり続けているのは、それが僕の使命だと思っているからです。デザインや編集を伝えるために僕はこれから先も『BEEK』を出し続けていきます。僕の山梨でのデザインや編集、撮影の仕事はほとんど『BEEK』から生まれたといっても過言ではありません」という答えが。

2018年1月現在、創刊から6号目を迎えている「BEEK」は、彼自身がたった1人で伝えたいことの場所や人や物を丁寧に抽出し、取材に行って撮影し、言葉を選びながらつくりあげています。その魅力はもちろん多くの人の心に響き、街案内の冊子作成やHP用の写真撮影、学校の授業依頼など、現在依頼は後をたちません。

山梨の香りや息づかいを暮らしているからこそ発信できるリアルなメディアだから、そこに自然と人が集まってくるのです。

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田舎だからこそデザインを身近に

「家業を継ぐとか、田舎に帰るとかは簡単なことではないかもしれない。それなりの覚悟が必要なことですからね。僕自身、都内でデザイナーをしていたときは、ひたすら業務をこなすだけでした」そう当時を振り返る土屋さん。

「自分のデザインした物を誰が見ているかなんて分からないですもんね。でも田舎は違う。外に出て、人に会い、話を聞き、最良の手段を一緒に見つける。その手段のなかにデザインが役立つ場合もときとしてある。そんなスタイルだと思うんですよね。デザインにお金をかける習慣がないこの町での報酬は、果物だったり野菜だったりなんてときもありますからね(笑)。それでも、僕のデザインで誰が喜んでくれているのかダイレクトに反応が確認できる今は楽しいですよ」そう土屋さんは続けました。

勤めていた頃と比べたら、勤務時間も増えている彼が笑顔なのは、使命を全うしているからなのかもしれません。クリエイターの少ない山梨県の底上げに尽力を尽くす土屋さんの次なる目標は、次代へ繋ぐということ。行政や地域の若い世代とのイベント企画や冊子制作などにも積極的に関わり、交流を深めています。

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「今思えば、なんとなく過ごしていた学生時代に雑誌を読み漁り、映画ばかり見ていた時間が無駄ではなかったなと感じますよ。そのときの知識が、今こんなにも僕の糧となっていますからね。やらなければいけないことは、まだまだ山積み。無理はしないけど続けていきます」と土屋さんは笑います。

自分らしいスタイルで生きる彼の姿には、これからの働き方のヒントがたくさんつまっていました。田舎にないモノもあるかもしれない、でも田舎にしかないモノを土屋さんはこの先も「BEEK」を通じて発信し続けていくことでしょう。

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やまなしの人や暮らしを伝えるフリーマガジン「BEEK」編集長

土屋 誠さん

1978年山梨県生まれ
2013年自身の媒体「BEEK」を創刊し、これまでに6号を発行。
山梨県富士吉田市「ハタオリマチフェスティバル」のイベント企画・運営や同県早川町や甲州市の移住促進ツールなどに携わる他多数。暮らしを考えるきっかけのヒントを発信し続けている。

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