「わたし」という自然を生きるほど、仕事は豊かになる
編集者・ライター 浅倉 彩氏
鳥羽山 康一郎
2018/02/12 (月) - 08:00

ある意味最も場所にとらわれない働き方が可能なのが、フリーランスの編集者やライターといった職業です。今回登場の浅倉彩氏はまさにそれを地で行く人物。しかし彼女にとって、これは現在の姿に過ぎません。今まで何度も訪れたターニング・ポイントは、そのときどきで感じた”内側に沸き起こった自然”を信じてのもの。これから進む道においても、それは同じです。

20歳のころに、海で体得した人生観

那覇市のコワーキングスペースに姿を見せた浅倉氏は、「離島の仕事から帰ってきたばかりです」と爽やかな顔で語ります。どことなく潮の香りがする笑顔は、大学時代はウィンドサーフィンに夢中だったという経歴から来ているのかなと思いました。出身も神奈川県藤沢市という湘南の地です。
「天気、風の向きや強さ、波の大きさ、水の透明度。海のコンディションは1日として同じ日はなく、人間がコントロールできません。そこに飛び込んでいって、風を操り最高の快感や達成感を感じる日もあれば、ただただ波や風に翻弄されてもみくちゃにされる日もある。どちらにしても、お腹のそこから嬉しさや悔しさ、純度100%の感情が湧いてきて、全細胞が躍動するような『生きている実感』を味わいました。地球や宇宙規模の自然と、わたしという自然。その間で共鳴する何かに、価値を感じるようになりました」
この価値観は、形を変えながらその後の浅倉氏の人生に大きな影響を与えることになります。競技として取り組み、全国大会に出場するまでに上達していたことから、「そんなに海が好きなら、ウィンドサーフィンのインストラクターになろうとすればよかったのかもしれない」と振り返りますが、「やはり一度は東京の会社で働かなければ」という気持ちで就職を選びました。

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まずは東京で編集、ライティングのスキルを身に付ける

新卒で入社したのは、創業4年目だったインターネット広告を扱うベンチャー企業。そこでバナー広告の営業に取り組み、入社3Q目で全社トップの売上高を達成します。
「雑誌編集者への憧れが強かったので、営業の実績をアピール材料にして2年目の終わりにリクルートに転職しました。注文住宅専門誌の編集部で、編集という仕事をゼロから修業させてもらったんです」
リクルートで過ごした期間は3年4ヶ月。決して長くはないけれど、多くのことを学んだといいます。「まず、みなさん声が大きくて話すスピードが速い(笑)それだけ、全員が主体性にあふれ、短時間に多くの情報が飛び交っている職場でした。常に『なぜそれをやるのか』を問われるあり方、思いや成果を数字で語ることの大切さ、そして、仕事に対する圧倒的当事者意識。記事の編集というスキルだけでなく、本当の意味で自立した社会人でいるために、大切なことを教えていただきました」
リクルートを卒業後、1年ほどの「ギャップイヤー*」を経てマイナビに就職。マイナビニュースで記事の執筆を担当し、ライターとしての経験を積みます。そして、28歳でフリーランスとして独立を果たしました。

*ギャップイヤー=上の学校へ進学するまでの期間。英語圏の国ではこの間、ワーキングホリデーを過ごしたりボランティア活動に参加したりするなど、学校では得られない体験をすることが多い。

「自然と共鳴して生きるには?」を体当たりで模索

浅倉さんは、リクルートを卒業した理由を「世の中にある事象の中で、いちばん問題意識を感じていた地球環境問題に取り組んでインパクトを生む仕事がしたい!というあどけない情熱を爆発させたかったから」と振り返ります。そのためのワーク&ライフシフトは、3月で退職した翌月、東京を離れて岩手県、そしてオーストラリアに旅立つところから始まります。これは、「パーマカルチャー」と呼ばれる、自然の摂理にかなった恒久的に持続可能な農的暮らしが営まれている場所に滞在するため。無料で泊めてもらう代わりに労働力を提供する、wwoofという仕組みを利用してのことです。
「海の上で感じた『地球とわたしの共鳴』が、価値観のど真ん中にあり続けていました。地球環境問題がジブンゴトだったのも、それが理由です。趣味としてサーフィンを続けるだけでは飽き足らず、仕事も生活も、もっと自然と共鳴する方向に持っていきたい、という模索の始まりが、かねてから興味を持っていた『パーマカルチャー』の体験だったんです。それで、わざわざ『パーマカルチャー発祥の地』と呼ばれるオーストラリアまで出かけて行って、実践者の方にもらったのが『パーマカルチャーは日本の里山をモデルにしている』という衝撃のひとこと。よくある、灯台下暗し(笑)。近くにあったんだ、と目から鱗が落ちました」
このことが、独立と同時に東京を離れ、千葉県いすみ市の里山に身を置く選択につながります。

千葉県いすみ市の里山で「半農半X」を実践した日々

里山で暮らすためにマイナビを退職して独立した浅倉氏が向かったのは、千葉県いすみ市にある「ブラウンズフィールド」でした。
「いつか誰かから聞いた『見たいと思う世界の変化に、あなた自身がなりなさい』という言葉。インド独立の父として知られるマハトマ・ガンジーの言葉ですが、それが心の指針になりました。わたし一人が田舎に引っ越したところで地球規模の環境問題は解決しない、などと思わずに、まずは自分自身が『これがエコでサステイナブルだ』と思う生活を実践してみよう、と決めました」
ブラウンズフィールドでは、敷地内にある田んぼで無農薬無化学肥料のお米を育て、味噌や醤油、梅干しなどを手づくりしながらカフェやゲストハウスを営んでいます。浅倉さんは、研修生として住み込むかたちでその営みに参加しながら、月に1?2度ほど東京へ編集・ライティング仕事の打合せに出かける日々。このように半分農業、後の半分は自分のミッションに費やすという生き方を「半農半X」と言います。浅倉氏は編集・ライティングを「X」に充てたわけです。
「やってみてわかったことは、自分自身の覚悟の甘さでした。自然と共鳴して生きるなんて、言うのは簡単だけれど、本当にやろうとしたら、まず土地がいるし、土地に根ざす覚悟も必要。たくさんの労働があってこそ成り立つということが身にしみました。自然からじかに恵みを受け取る喜びを教わりながらも、毎年毎年、田畑を耕し暮らしの場を守ることの重みを強く感じて。『わたしには無理』と、挫折感を味わいました。そのぶん、ブラウンズフィールドのみなさんや農家さんをはじめ、土地に根ざして生きる多くの方々に、心の底から尊敬の気持ちを持つに至れたことがせめてもの救いです」
そんな中、都会から田舎へ、会社員からフリーランスへのワーク&ライフシフトを実践した浅倉氏のもとに、エコやサステイナブルに関するお仕事が多く舞い込むようになります。

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「地域の仕事」に、ずっと追求してきたテーマを見出す

そのうちのひとつが、地球一周の船旅に参加し、世界各地の環境保全プロジェクトを取材・執筆するというもの。「正直、浮かれました(笑)。お仕事で世界一周できるなんて、夢みたい!と思い、即決。ニカラグアでは環境大臣に突撃インタビューし、『再生可能エネルギーでエネルギー自給率を上げて化石燃料の輸入を減らし、浮いた財源で義務教育を中学校までに引き上げたい』というお話に感銘を受けるなど、貴重な経験をさせていただきました」
「ライフ」の部分では挫折感を味わいながらも、さまざまな縁で舞い込む仕事をひとつひとつ納めていた浅倉氏に、沖縄移住というターニングポイントが訪れます。
2011年、自然エネルギーを研究していた琉球大学の教授から沖縄行きの誘いを受けた直後に東日本大震災が起こりました。
「3月の初めにあった『再生可能エネルギー世界展示会』で、とびっきりの笑顔で『沖縄においでよ!』と言っていただき、10年ぶりに沖縄に行こうとして飛行機のチケットを取った直後に3.11が起きました。関東を離れたいと思ったので、予定を早めて沖縄に飛びました」
「まさか定住するとは思わなかった」という浅倉さんと沖縄をつないだのは、一通のメールでした。書いていたブログが、同じメーリングリストに入っていたコンサルティング・ファームの社長の目に止まり「一緒に仕事をしよう」と、声がかかったのです。
「環境問題に限ってはいませんでしたが、広くさまざまな、公共性の高い課題にチャージするお仕事をされていました。直感的にピンときて、いくつかの公共事業に参加させていただくことに。考えてみれば、『都会暮らしで会社員』も『田舎暮らしでフリーランス』も、経済圏としては民間です。それしか知らなかった状態から、都会も田舎も包含した『地域』をフィールドに『公共』の視点で成果を上げるお仕事に挑戦することになりました」
それらのプロジェクトのうちのひとつが、久高島(くだかじま)という離島で採択された、農林水産省の「食と地域の交流促進事業」でした。
「島に眠っている食の資源を掘り起こし、島の収入源につなげることがミッションでした。週の半分を久高島で過ごさせてもらいました。当たり前ですが、道端に車が止まっているだけで誰が何をしているのかがわかる、という距離感のコミュニティにあって、はじめは『あなたは誰?』状態。『何しにきてるの?』と警戒されて当たり前のところから、ひとりずつ、目を合わせてお話ができる関係をつくり、食にまつわる小さなエピソードを拾い集めていきました」
そうして知り得た、たこの素潜り漁や、手づかみでのイラブー(海蛇)漁、芋を粉にして保存するいもくず、薬草、いじゃりといった食文化には、「自然との共鳴」があふれていたと言います。また、東京のベッドタウンに建つマンションで、東京に働きに行く父親と専業主婦の母親に育てられ、小学校から社会人になるまで電車通学をしていたという浅倉氏にとって、生まれた土地の自然や、同じ土地で生まれた人々と深くつながって生きる島人のあり方は衝撃的だったそう。
「こんな生き方があるのか!と衝撃を受けたことがきっかけとなり、我が身を振り返って、自分自身のルーツや目指すべきあり方について改めて考えはじめました」

湧き上がる情熱に従って、人生を次の展開へ

「とはいえ、毎日生きるのに必死(笑)。お仕事がいただけることがありがたいし、やれば全部面白いし、収入が少なくていいとは思えない欲張りな性分なので、お声がけいただけることは全部お請けしていました。結果、仕事と人付き合いに忙しい毎日で、気づいたら沖縄で暮らし始めて4年が経過し、35歳になっていました」
35歳という年齢を節目と捉えて今後の展開に思いを馳せたとき、改めて高校から28歳までを過ごした東京という地域に興味が湧いたという浅倉氏は、東京にも拠点を持ち、沖縄と東京の二拠点生活を始めます。
「そうしたら、さらに忙しくなって、またあっという間に時間が経ちました」
2?3週間ごとに東京と沖縄を往復しながらさまざまなプロジェクトに参加する中で、二度目の世界一周のチャンスが巡ってきます。ピースボートに乗船し、記事を書きながらライターチームを運営するという仕事。そうしてできた日本と日常を離れる3ヶ月半の時間が、浅倉氏に次の展開をもたらすことに。
「帰国してすぐに予備校に通い始め、今、医師免許取得を目指して勉強中です」
一見、突飛な選択に受け取れますが、浅倉氏の中ではすべてつながっています。
「自然と共鳴して生きるあり方を模索しながらオーストラリア、千葉の里山、沖縄で暮らし、二度の世界一周で34ヵ国を巡る中で多種多様に生きる人々と出会い、人々にとって一番身近な自然は海ではなく人それぞれの心と体だと思い至りました。さまざまなできごとから何度もそのことを実感したんです。『地球を守りたい』が『人の心と体を救いたい』に変化していたことに、船の上の時間の中ではっきりと気づきました」
取材相手から「なぜか今日はたくさんしゃべってしまった」「今まで取材を受けた中で、一番わかってくれた」と言われることが自慢という対人洞察力に、人体についての専門知識を掛け合わせることで、新たなステージを開拓する挑戦を始めた浅倉氏。
「点と点が線になるとよく言うけれど、それは振り返ってみて初めてわかること。一歩踏み出せばそこに道ができると信じて、湧き上がってくる情熱を信じて進んで行くしかないし、その道中は厳しいこともあるでしょう。でも綴ってきた点は必ず線となり、立体となって、あるときそこに光が当たって結像するんです。湧き上がってくる情熱がわたしにとっての自然。その自然を生ききれたら、この人生は成功です」
お話をうかがってみて、「場所にとらわれない生き方・働き方」とは単なるスタイルではなく、湧き上がる思いに従った結果そうなったことに気付きました。自分の情熱が働き方をつくっていく──自分という自然の声を聴きながらどこまで歩んでいくのか、こちらもワクワクし始めていました。

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浅倉 彩(あさくら あや)さん

神奈川県生まれ。大学卒業後ネットベンチャー企業を経てリクルートに。住宅専門誌で編集の経験を積む。その後「半農半X」生活を実践。2011年から沖縄に拠点を構え、東京と沖縄のダブルオフィスでライティングなどの活動を行う。現在はフリーランスのフレキシビリティを生かして医師免許の獲得を目指す。

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