監査法人勤務時代から震災後の中小企業の事業再生に貢献。事業計画の実証を目指して札幌へ
株式会社小鍛冶組 専務取締役 管理部長 山中 真さん
BizReach Regional
2017/04/27 (木) - 13:00

大学卒業後、25歳で会計士補に。大手監査法人に勤務する傍ら28歳で公認会計士試験に合格

中央大学商学部在学中は、会計士とは関連がない商業貿易学科に在籍していました。ですが、大学2.3年になって就職を考え始めたとき、簿記をちょっと勉強したら、それが面白かったんです。それで簿記2級に合格できたら会計士、落ちたら就職と決めてチャレンジしました。見事受かったので、会計士を目指しました。

さらに25歳のときに公認会計士の試験に合格しまして、2002年10月に中央青山監査法人に入り金融部に配属されました。その後、中央青山監査法人から「PwCあらた有限責任監査法人」(当時、あらた監査法人)へ2006年に移籍。25~35歳くらいまでの10年間は、主に資産運用会社やファンドの監査をしてきました。

監査の仕事は、決算があると当然のように忙しくなるんです。その中でもファンドの決算は、決算日を自由に決められるので、ほぼ毎日決算があるんです。年間600本くらいそういった決算監査を抱え、それをひたすら流れ作業のような形でやってる時期もありましたね。比較的忙しかったですが、同僚や上司にも恵まれて、充実した毎日を過ごしていました。

育児休暇中の東日本大震災がきっかけ。中小企業支援部門の立ち上げに参画

その間子供が生まれたこともあり上司に大変だと相談したら、8カ月間の育児休暇が取れたんです。その休暇中に起きたのが、2011年3月の東日本大震災。あの頃は仕事から離れ家族と一緒にいたのですが、東北が、地方が大変なことになったと心を痛めました。そのとき脳裏をよぎったのは、「自分の存在って何だろう」ということ。会計士という公的な資格を持っている自分が、社会に対して貢献できることが何かないだろうか、貢献できるとしたらそれはどういう形でだろうか、と考え始めたんです。

その後職場に復帰したのですが、これまでの部門とはまったく関係のない仕事に携わることになりました。それが、東日本大震災で被災した中小企業の再建を支援する業務だったんです。

事業・財務デューデリジェンスや事業計画の策定支援の業務は、通常PwCでは監査法人が直接やらないのですが、震災で被災した中小企業を支援する社会的意義を私の上司が関係各所に説明し、実施することが認められました。私もこの業務に是非携わりたいと思い、見積提案に参加させてもらって、無事受注でき、1号案件がスタートしたんです。

個人的には中小企業を支援する業務に携わるのは今回限りだなと思っていたのですが、その評判がいろんなところに伝わったんですね。アドバイザリー部門の方から、一緒に中小企業にフォーカスした部門を立ち上げましょうということになり、PwC中堅・中小企業支援室という名でスタートしました。それから中堅・中小企業支援室のマネージャーとして、様々な案件を経験することができました。
これが35,6歳のことで、私の中で大きなターニングポイントになりましたね。

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事業計画を最後まで見届けたい。その思いから札幌の企業へ

当時、中小企業の支援業務の中で多かったものは、社長と一緒に事業計画を作り、それを金融機関に説明し、返済計画の見直し等をするというものでした。この業務には続きがあり、事業計画を実行していくこととそのモニタリングというものがあります。しかし、中小企業だと予算がなく、その後のサポートまでつながらない。そうなると、支援した会社の行く末がどうなっていくのかが、やっぱり気になるんですね。

財務的な施策に加え、経営者の思いを組み入れて行く事業計画の絵は、多分誰でも描けると思うのですが、やっぱり最終的にどうなるかが重要。どこかのタイミングで、実証じゃないですけど、自分が携わった事業計画がどうなっていくのかを、組織の中で最後まで見てみたいという思いがわき始めました。

そういう風に経営自体に長いスパンで関与できる会社があればなと考えていたころ、2015年の1月くらいでしょうか。現在私が働く札幌の会社の案件がスタートしたのです。

最初のころは正直いって札幌に行くのは乗り気ではなかったんです。でも、専務と次第によく話すようになり、これまでの苦労や事業の悩み、今後のビジョンなどを聞いたりしていると、とても魅力的な人だと感じたんです。そして当時ちょうど経営陣の若返りを図るという議論の中で、当時の社長が私にこう言ったんです。「事業面は専務(息子)がいるからいいけれど、財務面の後継者がいないんだよ。」経営陣の若返りの施策を形にするためにも、誰か探さなくてはということになりました。この時「これはチャンスだな」と思いました。

自分と同じ年の経営者のパートナーとして札幌へ。現在、管理部門を統括

私がこれまで見てきた企業の中で、専務は一番若い経営者でした。39歳で自分と同じ年。話し上手で魅力的な専務から「ぜひ来てほしい」といわれ、この話を受ける決心は固まりました。ただし、この案件が最後まで完了することを条件にしました。今まで思っていた実証のチャンスが訪れたというわけです。

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当社はいわゆる建設業でゼネコンではなく、専門工事業者。専門工事業のなかでも、とび土工コンクリート工事を専門にしています。建設業全体としては成長産業ではないので、私自身この会社にくることになるとは、想像もしていなかったんです。ですが会社を見ていく中で、札幌だけ、日本だけでなく、グローバルな視点で考えると、まだまだ開発していかなければいけない場所は世界中にある。地方の中小企業ですが、今後海外へ出ていけば成長していく可能性があるのではないかと思いました。

PwCと東京を去るときよく言われたのが、どうして札幌なの?なぜそんな小さな会社なの?という2点だったのですが、地理的な理由は特になく、この会社に自分が活躍できる場が見えた。ポジションがあったということにつきます。一方「小さな会社」というのは、逆に大きい会社では会社全体を見渡すことができないので、規模的には今の会社がちょうど良かったということになります。

現在は、この札幌だけで終わりたくないという社長の思いをベースに、経営企画から経理・財務、人事・総務など経営部門全般を統括しています。管理部門のスタッフは数名。いちから規定をつくるなど、まだまだ会社の体制を整えていく段階ですが、ゆくゆくは海外事業の展開なども目指していきたいです。

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札幌の生活環境はばつぐん。子供たちと過ごす時間も毎日確保

札幌行きについて、妻にまず相談しました。お互いの一番の問題は、両親のことでした。私の実家は千葉、妻は埼玉。当時住んでいたのは東京でしたので、何かあってもすぐに駆けつけられる。また、私の仕事が忙しく、週末も仕事に行くことがあり、そんな時は、妻と子供たちは週末妻の実家で過ごすという生活をしていました。札幌では、何かあってもすぐに駆けつけられないし、会うのも夏休みや年末年始など帰れる程度。これまでの環境が一変する不安が妻にはあったと思います。あるとき妻に「単身じゃだめなの?」と聞かれ、私は「それでもいいよ」と答えたこともありました。妻はその回答を聞いて私が本気なのだと悟り、覚悟が決まったみたいです。

実際に住んでみると札幌は子育て環境もすごく良くて、家族との時間が増えたのは何よりよかったと思います。以前は家族に会う時間もあまり取れなかったのですが、今は7時か8時には帰宅。風呂に子供と一緒にはいって、休日はどこかへ遊びに行く。これは大きな変化です。

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どこでもやっていける自負。札幌での経験が将来の起点に

実際地方へ転職して行く場合、どこに行っても「やっていける」と思えるかどうかが、実は重要かもしれません。

私自身もともと組織への帰属意識があまりなくて、さらに会社の運営方針(小鍛冶組の事業計画)に対して入社前から関わっていたので、とくに転職後の心配はしていませんでした。もしいらないよって言われたら、それはそれでまた別を探せばいいと思っていました。こういう考えでいられるのも、会計士という資格とPwCでの経験があるからだと思っています。

両親、友人がいますので、将来的には東京方面に戻ることもあるかもしれません。でも、あくまでも今は、小鍛冶組をどのように成長させていくかが私の使命。これまでの会計士のスキルとPwCでの経験に、これからの事業経験を加えて、より的確な判断ができる経営のプロフェッショナルになっていきたいと考えています。

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株式会社 小鍛冶組

専務取締役 管理部長 山中 真さん

中央大学商学部商業貿易学科卒業。25歳で公認会計士の資格を取得し、2002年秋から中央青山監査法人に勤務。資産運用及びファンドの監査業務に携わる。東日本大震災後、中堅・中小企業支援室のマネージャーとして活躍。2016年2月、札幌の企業・小鍛治組へ転職。オーナー社長のパートナーとして経営管理部門を統括する。

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