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民間主体のまちづくりが起こした奇跡。仕掛け人が語る、成功の秘密(前編)
ふらのまちづくり株式会社 代表取締役社長 西本 伸顕さん
GLOCAL MISSION Times 編集部
2018/10/15 (月) - 08:00

富良野といえば、北海道を代表する観光地。だが地元には、華やかなイメージとは裏腹な悩みがあった。1年間に200万人もの観光客が訪れるのにも関わらず、街なかはほぼ素通り。中心地であるはずの商店街もさびれる一方だったという。そんな街の危機に立ち上がった3人のリーダーは街じゅうを巻き込み、やがて「できっこない」といわれた奇跡を起こした。今や年間120万人を集め、商店街をも復活させる起爆剤となっている「フラノマルシェ」。その仕掛け人となったのが、「ふらのまちづくり株式会社」の代表を務める西本伸顕さん。成功のポイントと、地方におけるビジネスの可能性、これからのまちづくりのヒントを探った。

街のど真ん中にできた、巨大な空き地

―西本さんは以前は東京で働いていらっしゃったそうですね。富良野にUターンされ、現在に至るまでのご経歴について教えていただけますか?

東京でリクルートに入社して、学校関係の広報の仕事を5年間務めていました。それから札幌に転勤して5年ほど働き、本社に異動になりそうなタイミングで家業の青果卸会社「株式会社北印」を継がないかという話があったんです。ただ、私自身もその頃、東京の生活はもう自分には合わないなと思っていて。私はどちらかというと生活のテンポがのんびりしていて、農耕民族的なタイプでして。その頃は既に結婚し子どももいましたから、子育ての環境としても東京は大変だなと感じていました。それともう1つ、「北の国から」というドラマの影響もありました。

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代表取締役社長 西本 伸顕さん

―影響を受けたとは、具体的にどういうことですか?

東京に戻って働くか、家業を継ぐかで迷っていたその頃、ちょうど「北の国から」の放映が始まり、自分のふるさとを見つめ直すきっかけを作ってくれたんです。こんなに美しい街だったんだということを逆に教えてもらった感じでした。しかも富良野の小学校時代の仲間が、脚本家の倉本聰さんと楽しそうにやっている様子が、月刊小説新潮に「北の人名録」として毎月描かれていたんです。それがとっても魅力的で。倉本さんとお近づきになれたら、面白いことができるんじゃないかと思ったんですね。それで富良野にUターンしたのが34歳の時。子どもは小学校に上がる前でした。

それから友達を通して倉本さんを紹介してもらって、仲間に入れてもらいました。最終的には、倉本先生が主宰する「富良野塾」(役者・シナリオライター養成塾)の理事もさせてもらって。当初考えていたことが実現しました。

―家業の事業承継についてはかがでしたか?

決して順風満帆な会社ではなかったので、帰ってきた当時は課題が山積み。それをきちんと立てなおさなければっていうのが、私の最初のミッションでした。倉本さんとのやりとりは楽しかったんですけれども、一方で、20年ぐらいは会社を立て直すのに必死でしたね。それがようやく落ち着いてきたので、富良野への恩返しのつもりで、まちづくりにも取り組むようになったんです。今も家業を辞めたわけではなく、二足のわらじなんです。でも北印は私がいなくても動けるようになったので、今はこちらのウエイトの方が高い。今はどっちが本業かわからないですね(笑)。

―「ふらのまちづくり株式会社」を立ち上げた経緯は?

きっかけは、街のど真ん中に巨大な空き地ができてしまったことでした。病院の跡地なんですが、行政にはお金がないということで、野ざらしになっていたんです。それは観光地である富良野にとって、もの凄いマイナス。このままではまずいなと思っていた時に、今「ふらのまちづくり株式会社」の専務をやってくれている湯浅君から、「あのまま空き地を野ざらしにしていたら街がダメになってしまう。市から自分たちに預けてもらって、民間主導で街づくりをやりませんか?」という問いかけがあったんです。私も、失敗と言われている駅前の再開発に関わった人間の1人として、行政に任せっぱなしではろくな街ができない、気がついた人間が動き出さないと街が良くならない、と思っていました。それで「行政側にも誰かいないか?」と探したら、今は商工会議所の専務をしている大玉君がいたんです。それでまずはその3人で動き出すことにしました。

―立ち上げメンバーには共通する思いがあったのですね。

みんな、大学進学や就職で、一度外に出ている連中なんですよ。外から見た富良野のポテンシャルを感じているので、このままで終わっちゃう街じゃないよな、「北の国から」が終わっても、富良野を終わらせちゃダメだよなという思いを共有していました。「北の国から」に頼らない、新しい富良野を作っていこうという強い決意のもとでスタートしたんです。

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収益を生み出す体質が必要

―西本さんの中には、もともと「ふるさとを良くしたい」という気持ちがあったんですか?

帰ってきてすぐに青年会議所に入って、中学時代の先輩にいわれたんです。「自分の会社だけよければいいっていうんじゃなくて、市民として富良野の街づくりを考えなきゃならないよ」と。それで、自分も会社を立て直すのに必死な時期でしたが、何かテーマとしてやっていきたいと思って、最初に取り組んだのが、「演劇のまちづくり」でした。倉本先生がせっかく塾を開き、演劇文化の種をまいてくれたんだから、それを支える環境を作りたかったんです。それがうまくいって、劇場ができて、「ふらの演劇工房」というNPO法人ができました。そのときに学んだのが、「収益を作る体質」の大切さだったんです。

―それはどういうことでしょう?

街を変えるということには、必ず経済が伴うんです。「演劇のまちづくり」はいいんだけれども、資金はどうするんだ?という課題は当然生まれる。補助金でなんとかやっていっても、結局、稼がないと続かない。まちづくりを継続するためには、稼ぐ柱を作らなければならないと痛感しました。私も経営者ですから、収益をきちんと確保できる方法がないかなぁと考えた時に、「マルシェ」というものを思いついたんです。

―「マルシェ」というアイデアにたどり着いた背景は?

まず思いついたのは、道の駅でした。それで成功している道の駅を見て回って、いいとこ取りをしようと考えたんです。ところがいろいろ聞いていくと、駐車場は国が用意してくれたり、トイレも用意してくれるから、イニシャルコストはかからないんだけれども、24時間運営でランニングコストはかなりかかる、ということがわかったんです。なにより、道の駅って基本的には車の便宜を図るためのものなので、根本は街の活性化のための仕組みではないんですね。通過型だと街全体に利益をもたらすことにはならない。でも、なんとかそこに人を集めることができれば、商店街と連動することによって、新しい人の流れを作れるんじゃないかと考えました。今まで観光客が200万人いても、みんな素通りして帰ってしまっていたのを、街に引き込む役割を、「マルシェ」にさせようと思いついたんです。それだけの食文化の魅力が富良野にはあるということも、調べれば調べるほどわかってきました。野菜は、道内で作ってないものはないっていうぐらいあるし、昔ながらの低温殺菌で脂肪分の多い濃厚な牛乳もあって、それを使ったスイーツもある。実際、美味しいものがたくさんあるんですね。それに観光客に人気の飲食店も多い。そういう食べ物やお店を一箇所に集めて、富良野の食の豊かさを発信すれば、今まで素通りしていた方の半分ぐらいは、立ち寄ってくれるかなと思っていた。そして案の定そうなりました。

―富良野にとって、ありそうでなかった場所だったんですね。

それまでもみんな、そういうのがあればいいなぁという議論はしていたんです。でも場所がなかったというのもあるし、言うだけで実際やる人がいなかった。でもせっかく自分たちが思いついたんだから、自分たちでやろうということになったんです。といっても自分たちだけでは資金はないですから、まちづくりを“オール富良野”でやるために、いろんな人に協力してもらうことにしました。会議所の会頭に事情を話したら、みんなを口説いて回ってくれて、最終的に集まった資本金は7350万。金融機関と農協を除けば、富良野では資本金がナンバーワンの会社です。街じゅうが応援団になってくれたおかげでスタートできたんですよ。富良野は幸いなことに、何人かが腹をくくってやると、それに対して「みんなで応援しましょう」っていう流れが生まれる、そういう精神文化のまちなんです。

―つまり富良野には、民間主導でムーブベントを起こしやすい風土があるということでしょうか。

帰ってきてびっくりしたんですが、田舎町にしては人材が多いんですね。レベルが高いというか。小林多喜二の小説に「不在地主」というのがあるんですが、この本は当時、小樽の大地主が富良野に土地を持っていて、理不尽なことをするもんだから、富良野の農民がみんなで小樽までいってレジスタンスを起こした、という実話に基づいた小説なんです。その時代に農民たちが地主に対して争議を起こすっていうのは、ほとんどないじゃないですか。多分そういうところにルーツがあって、人口のわりには、あの倉本さんも感心するぐらい面白い人材がいますよ。

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「富良野市中心市街地活性化基本計画」をもとにした「食」をテーマとするまちの縁側「フラノマルシェ」がついにオープン

あえてレストランを作らなかった理由

―商店街はどのようにして巻き込んでいったのですか?

商店街についても「このままではダメだよな」ということで、マルシェをやる時に「街並みを一緒に変えようよ」と提案したんです。最初に「マルシェ1」ができて、同時並行的に「マルシェ2」の開発も進めていたんだけれども、私たちはまちづくりのど素人ですからね。「そんなことやったって、人来るの?」とみんな思ってたんですよ。ところがマルシェ1が実際にオープンしたら、商店街にもどっと人が来て、みんなびっくり。外国の方が立ち寄るようになったりして、売り上げが3倍になった店もあります。それまで店をたたもうと思っていた人たちも、「これならやれるかな」ということで、思いとどまった。特に飲食は圧倒的に市外からのお客さんが増えています。というのも、私たちはあえてマルシェ内にレストランを作らなかったからなんです。

―大型の商業施設にも関わらず、レストランを作らなかった。その狙いは?

レストランを作ってしまうと、そこで完結して、人が街に流れていかないからです。だからマルシェにはインフォメーションコーナーを置くだけにして、たとえば「富良野の美味しいラーメン屋さんはどこですか?」と聞いてもらう仕組みにしました。「マルシェ」を拠点として、街に人を送り込む役目をしているんです。もちろん不便だと言う人もいるし、飲食をやればすぐに1億ぐらいの売り上げは立つんですが、それは我々のミッションじゃない。そこで儲かってもしょうがないので。我々のミッションは商店街のお役に立つこと。まちを活性化させること。最初のうちは反対派もいたんですけれど、そういう姿勢がだんだん理解されるようになって、今は「まちづくり会社さんのおかげで」と言ってもらえるようになったし、「協力して富良野の街を変えていきましょう」と言ってくれるようになりました。

―雇用も生まれているわけですよね?

そうです。実際、地元に残りたいという人も多いんですけれども、これまでは受け皿が少なかった。でも今は、関連する事業全体で150人ぐらいの雇用が生まれています。地元の学生も定期的に雇用していますし、すごく大きな受け皿になっていると思います。

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フラノマルシェに隣接している、フラノマルシェ2。館内には、面積399.08m²の多目的スペース・TAMARIBA(タマリーバ)があり、四季折々、さまざまなイベントも開催。その名の通り、地域住民の溜まり場として賑わっている。

集客は宣伝にお金をかけずに

―「フラノマルシェ」の現在の来場者数は?

去年は122万人です。初年度の55万人から少しずつ増えてきて、「マルシェ2」ができてから一気に上がりました。122万人というのは、ここは道の駅ではないですけれども、道の駅のランキングに入れると北海道で2位なんです。ポテンシャルとしては、150万人ぐらいまでいけると思っているんですよ。なぜかというと、うちは宣伝費をあまり使っていないから。雑誌や新聞の広告は数えるほどしか出していないし、観光バスも、来たらバックマージンみたいなのをやっているところもありますが、それも一切やっていません。そういうものに頼らなくとも、お客さんが来たいっていう場所にしようと。

―宣伝広告に頼らなくても人を集められている秘密は?

メディアを味方につけてパブリシティで取り上げてもらっているんです。常に話題性を作ることですね。話題性があると取材に来てもらえるし、長続きするんです。富良野って、テレビで紹介すると視聴率も上がるみたいで。明るい話題が多いので、メディアの方もいつも探してくれてるんですよ。だから、そこにネタを提供すればいい。あとは口コミの影響も大きいですね。

―来場客の構成は?

7割がリピーターです。女性の場合は75%がリピーターです。だから女性が支えてくれているとは思っています。地域としては、地元も含めて道内の人が8割。外国人はまだ1割ぐらいですね。それでこれだけ集まっているんだから、まだ増えていく可能性は十分にあるなと思っています。

年間を通して集客できる魅力づくりを

―経営上の課題はありますか?

富良野は夏型の観光地なので、冬になると一気に観光客が減ります。これが最大の課題ですね。そこをちゃんとしないと、若い人が安定して仕事ができないんですよ。なので集客を平準化するために、オフシーズンと言われている秋から冬の観光コンテンツを考えないといけないと思っています。特に外国人対策ですね。インバウンドの人たちに来てもらえるように、魅力づくりとコンテンツ作りをやっていかなければならない。それで今年の6月に「コンシェルジュフラノ」という施設も作ったんです。

―「コンシェルジュフラノ」とは?

地下1階、地上4階の「戦略的複合施設」です。1階には観光インフォメーション機能、インバウンドむけのスーベニアショップや富良野の食材にこだわった農村レストラン。2階は市商工観光課や商工会議所、観光協会などのシェアオフィス。3階は簡易宿泊施設、4階にはコミュニティFMのスタジオを設けています。平成28年3月に閉店した旧三番舘ふらの店の空き店舗ビルを再生しました。

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コンシェルジュフラノ。「インバウンド」「簡易宿泊」「着地型観光」をキーワードとする、富良野の「新たな情報発信とおもてなしの戦略的拠点」として平成30年6月にオープン

―いきさつはどのような?

マルシェの時と同じように、いきなり巨大な空きビルができちゃったんです。放っておくと幽霊屋敷になっちゃうし、富良野のイメージダウンになるんで、国の補助金などを引っ張り出して再生しました。なかなか綱渡りみたいな仕事でしたけれども、国の方も、富良野を成功事例にしたいということで応援してくれて。補正予算で大臣認定のS特という補助金があって、その5億円の補助金のうち、2.5億を預けてくれたんですよ。それがないとできなかったですね。

―マルシェを基点に、商品開発などもされているんですか?

していますよ。マルシェにはアンテナショップ的な役割もあって、スピード感のある仕掛けができるということもあり、オープン以来すでに200アイテムくらいの商品が生まれています。一般の流通ルートにのせようとすると、ものすごく大変になっちゃうでしょ。問屋さんを通すために、何千、何万とかの単位で作らなきゃいけない。でもここにちょっと試験的に置くぐらいだと、わりとリスクなくものづくりができるんですよ。売れたら、量産すればいい。だから売れる商品をどんどん開発しています。

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―事業はこれからもますます広がっていきそうですね。

まだ道半ばです。「マルシェ3」まで行こうかっていう話はしているんですよ。出来たときには、富良野駅から続くこの一帯までの通りを「マルシェ通り」という名前に変えてしまおうよなんて話合っています。

―「マルシェ」自体も進化していくのでしょうか?

これからのテーマは、夜のスポットとしての魅力づくりですね。従来型の夜の繁華街も残しつつ、新たにインバウンドのお客さんをメインターゲットとした、バルのような空間を作っていきたいなと。

―それは観光客だけでなく、地元の皆さんも喜びそうですね。

そうなんですよ。「マルシェ」に花屋さんとか雑貨屋さんを入れたのですが、これも地元の方に非常に喜ばれていて、この二店は売り上げの半分は地元なんです。最初はこんな田舎だと成り立たないと言われていた分野です。葬式用の花屋だったらあるけれども、生活提案型の花屋なんて、できるわけがないと。それが今、わずか5坪ぐらいの花屋で既存店も顔負けの売り上げを上げているんですから。

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ラベンダーとドライフラワーのブーケなど、富良野ならではの花が店内を華やかに彩る。人気商品のハーバリウムを手作りできる体験イベントも大好評

―できるわけがないという意見を、見事に覆したわけですね。

花屋さん、雑貨屋さんっていうのは、セレクトショップじゃないですか。コンセプトを明確にしてお金を落としてくれる人をちゃんとターゲティングすれば、田舎でも一定規模で成り立つということがわかったし、実証できた。だから今は、新たにこの富良野で、こぼれているニーズはないだろうかと探っているところなんです。

女性を活用できる街が残っていく

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