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東京から長崎に根を下ろした「企業再生仕事人」が切り拓いた、経営の未来(前編)
長崎県プロフェッショナル人材戦略拠点「プロナ」代表 渋谷 厚さん
GLOCAL MISSION Times 編集部
2018/11/19 (月) - 08:00

現在、長崎県内の中小企業にプロフェッショナル人材をマッチングさせる事業に奔走している、渋谷厚さん。実は渋谷さん自身も東京からのIターン経験者であり、かつては数々の企業を再生し、あの「長崎ハウステンボス」再生の中で主要メンバーとして活躍した経歴を持つ。そんな凄腕のプロフェッショナルがなぜ、いくつもの大型のオファーを断り、長崎に根を下ろしたのか?企業再生の貴重な体験談とともに、人生を豊かに生き抜くためのヒントをうかがった。

「今まで通り」では生き残れない

―これまで数多くの企業再生に関わって来られたとのことですが、まずはそちらのご経歴からお聞かせください

初めて手がけた企業再生は、自分の父の会社でした。おもちゃ製造業の会社でしたが、本当に小さな町工場でね。それを元気にしたというのが、企業再生の第一号目。その一方で、自らデザイン雑貨の会社(企画・販売業)を立ち上げました。社名はドイツ語で「夢追い人」を意味する「トロイマー」としました。そして再生の2号目が、「王様のアイデア」という雑貨チェーン店でした。最初はそこに自社の商品を“アイデア雑貨”として納めていました。ところが、先方の社長さんから「ぜひうちの経営をやってくれ」と言われて経営に携わり、成功しました。そして次の依頼案件は、「キデイランド」。たくさんのキャラクター商品を扱う、全国に約100の店舗を持つ小売りチェーンです。その途中で、スヌーピーのキャラクターの専門ショップの再生も手がけさせていただきました。その仕事が一段落していたところで、7年前に「長崎ハウステンボス」からのお声がけをいただきました。

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長崎県プロフェッショナル人材戦略拠点「プロナ」代表 渋谷 厚さん

―1件目の企業再生がお父様の会社だったということなのですが、当時、どのような課題があって、それに対してどんな取り組みをされたのですか?

おもちゃは日本の高度成長を支えた主力商品でした。ところが時代とともに、台湾や中国といった外国で作られるようになりました。すると日本の方がどんどん分が悪くなるわけですね。僕も今、いろんな企業でお話させていただいていますが、今まで通りのことを、今までの方法で、今までのお客様に届けていると、やはり企業は衰退します。そこで僕は、今までとは違う方法で、違うお客様に、自分の会社でできることを模索しながら、動いていったんです。それが自分の会社の成長の原動となり、またその後、いくつもの企業再生のキーファクターとなりました。

―再生の成功要因について、ぜひ具体的にお聞かせください

おもちゃの会社というと、バンダイやタカラトミーが有名ですよね。父の会社はそうしたメーカーの下で働く「工場」という立場だったんです。つまり工場のお客様は、メーカー。そこで僕は、自分の工場のポジションを変えたんです。会社の器や人員は変えずに、「工場」から「メーカー」に。そして物流機能も内製で確立して、東急ハンズや、トイザらス、ロフトに、直接商品を売り込みました。つまり今でいう「ダイレクトマーケティング」になるわけですが、それに成功したんです。

―それは当時、業界の中でもかなり型破りな取り組みだったのでは?

当時、そのようなチャレンジの方法を勉強したくていろんな文献を探したのですが、前例がありませんでした。無いということはなんなんだろう?どうしたらできるようになるんだろう?と考えました。前例が無いということは、自分が最初。まさしくフロンティアスピリットで、自分が切り開いていくしかないと割り切り、がむしゃらにやっていきました。

―前例がない分、苦労されたこともたくさんおありだったかと思うのですが

社会に出た時は「工場」(メーカーの下請け)でデビューし、すぐに「メーカー」として起業し、問屋業態も兼ね備えながらハンズやロフトなどの「小売店」に直接の取り引きを行う、というそれまでに前例のないモデルのビジネスをやってきました。
その後、企業再生で「王様のアイデア」や「キデイランド」を経営することで、僕の仕事はついに消費者に直接接するところまできました。
ものづくりでは、アイデアを出すところから完成品としてお客様にお届けできる最終形まで。ビジネスとしては下請けでも経営できる原価や仕入先ネットワークを持ちながら、エンドユーザーに商品をお渡しできるリテールまでを会得したことは、振り返れば「すべてやってきたな」と満足しています。

僕はおもちゃづくりが今でも大好きで、開発する時は手にした子どもたちの笑顔をイメージしながら作っています。おそらくこれからも。
ただ開発してきたのはおもちゃだけではありません。大手フィルムメーカーと協同でレンズ付きフィルムカメラの防水ケースを作ったり、最大手システムキッチンメーカーの要請を受けてICとセンサーを内臓した高機能のゴミ箱も作りました。また、15年前になりますが、インターネット上で情報検索を行って答えてくれる会話型ロボットもアイデアから考えて試作しました。今でいうAIスピーカーの、その原理モデルですね。

仕事というものはどの仕事でもそうですが、しっかりとした理念と信念を自覚して行うことが大切です。
おもちゃを作るなら子どもの笑顔が、企業再生を任されたら、再生と共に日々明るくなる社員の表情が、自分にやりがいと勇気を与えてくれます。
今いただいたいる仕事(プロ人材を地方の企業に招く手伝い)も、首都圏から遠く離れた長崎の小さな会社、その経営者が心を奮い立つ、そこからお手伝いをさせていただき、飛躍的な成長の原動力としてもらう。今、日本でやらねばならない大きな課題の一端を任されていると思うと、やりがいを感じるとともに、大きな責任を感じています。

おもちゃ業界だと「工場」という立場で奮闘してきた父のネットワークが、良い意味でも悪い意味でも次の展開に影響を与えました。そこで僕はおもちゃとは違うジャンルの「雑貨」の世界にチャレンジすることにしました。青山や原宿などで培ったデザインの感性と、何にでも応用できる「おもちゃ開発の基礎知識」は、いずれも大きな力となり有益でしたが、「工場」の立場から一気に最前線の小売店に営業していく(メーカーや問屋を介さず)ことは本当によく頑張りました。

―1軒1軒、直接足を運ばれたのですか?

そうです。東急ハンズは当時、僕が起業した頃は、渋谷店のみしかありませんでした。しかしその後、2、3、4店舗目と増えていって、ロフトも誕生。さらに同様の店や売り場はどんどん増えて拡大し、取引先の輪もどんどん増えていったので、今思えば当時のトレンドをとらえることができて、運にも恵まれていたと思います。

―店舗拡大と同時に販路が広がるということは、それだけ商品の評価も高かったわけですよね

東急ハンズなどの一番良い売場に置く商品を作っていくので、デザイン的にも完成度がしっかりしていないとなかなか認めてもらえませんでしたが、そこは高校、大学と学生時代の7年間を青山で過ごしたことが大きなルーツとなっています。青山という街から得たデザインやトレンドの感性が、この年齢になった今でもすごく自分の中で生きています。

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―洗練された街を歩きながら、吸収されていったんですね

はい、常にアンテナを張り巡らせていました。デートの最中でも、デザインの良い店を見つけると「ちょっと待ってて」と言って入ったりして(笑)。
それから、大学では多くの時間を経済学とスキーにつぎ込みました。両方とも、かなり本気でやりました。その知識と基礎体力が、今も確実に役に立っています。

―デザインは今も現役でやられていると伺いましたが

ええ、今は地方創生のお仕事をいただいていますけれど、去年は長崎県を代表する老舗のカステラメーカーが33年ぶりにデザインをリニューアルするということで、その統括プロデューサーをお引き受けしました。クライアントの強い信念と感性豊かなデザイナーと三者が調和して得た受賞で、三者で祝杯を挙げました。地方創生の仕事をやる傍ら、今でもそういうデザインとか、ものづくりをやりたくて。チャンスがあると、うきうきしながらやっています。発案、設計、デザイン、生産指示とすべてチャンスがあれば今も現役でやっています。

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日本パッケージデザインアワードでグランプリを受賞した『文明堂総本店 カステラ』のパッケージデザイン

ハウステンボス再生。その奇跡の舞台裏

―7件目の企業再生がハウステンボスとのことですが、そこに携わるに至った経緯を教えていただけますか?

本来はおもちゃ作りやデザイン雑貨作りが得意分野で大好きなのですが、自分で事業承継や起業、M&Aといった経験を積んでいくうちに、大手投資ファンドや大手コンサルタント会社から企業再生の依頼を受けることが増えてきたんです。ファンドやコンサルが企業再生を決定すると、その企業を再生するのに適した“再生人”を選びます。ハウステンボスのお話をいただいたのも、そうしたご縁からでした。企業再生、それから商品関係のプロフェッショナルとして「誰かスペシャリストはいないか?」という話になった時に、「それだったら渋谷氏だろう」とご推薦いただいたようです。そして2011年の5月からハウステンボスに入社し、執行役員商品本部長兼調達本部長兼テナント事業本部長として、3年間お手伝いをしました。

―当時の課題と取り組みについて、詳しくお聞かせください

ハウステンボスは今から26年前に莫大な投資額を投下して華々しく開業しました。ところが、理想と現実がマッチしなくて、開業から18年間、相当厳しい経営が続きました。課題はいろいろありましたが、まず立地が日本で一番西の長崎県になるので、情報量が不足していました。情報量が足りないと、商品にも影響が出るし、企画数も少なくなります。自ずと部門スタッフのノウハウも少なくなってしまう。そこに外部から専門家が入れば、ものづくりのノウハウが注入できるし、いろんな支援先からのネットワークも彼らにプレゼントできる。僕はかなりのスピードで商品部門の改革を次々と断行しました。

―商品はどのようにテコ入れしていったのですか?

新しい商品はたくさん作りましたよ。タオルだったり、キーホルダーだったり、ポップコーンケースだったり。また以前はオリジナルのカステラも1種類しかありませんでした。「1種類でたくさん売っているから2種類作るのは危険だ」という意見も多くありましたけれども、僕はその1種類の他に、3点、4点とオリジナルのカステラを作っていきました。するとカステラは1点で攻めていたのが、売り場で面で攻めることができる。売上は飛躍的に伸びました。
もう1つのポイントは、“本当に美味しいものを作る”ということです。たくさんの試食や新しい商品知識の獲得に努め、お菓子やワインなどもたくさん開発しました。ワインも専門書を一気に3冊くらい買い込んで一気に読んで、交渉に必要な知識を得た上で仕入先と「こうしてみたい」「ああしてみたい」と熱く要求しました。もちろん、安心・安全は当たり前ですが、商品というのはシンプルで、本当に美味しければお客様の評価をいただけるものなんです。そこを目指して開発していくとだいたい間違いはないですね。

―情報量の不足の他にも、課題はありましたか?

ハウステンボスの経営が18年間苦戦してしまった理由は、複数ありました。テーマパークも、東京や大阪など大きな都市から電車で行けるところにあるのか、そうでないのか、立地によってそもそも経営を変えていかなければならない。同じようなことをやっていたらダメなんです。長崎ですと、日帰りで来れるお客様っていうのは少ないですから。やっぱり滞在型になる。過去18年間の経営では、滞在型で若い層、年配層の方がバランス良く来れるという要素が足りなかったのかなと思います。以前は、チューリップのイベント一本しか無かったんですね。チューリップを見て、花火が上がる程度では、1回来たら、2回目は来ないですよね。それまでの経営の中では、イベントでも商品でも、常に変わっていくスタイルが少なかった。あってもインパクトが不足していたと思うんです。そこで、新生ハウステンボスは、チューリップだけでなく、バラを100万本植えたり、夏はプールをやったりと、イベントを増やしていったんです。

―さまざまな取り組みをされた結果、来場者数はどれぐらいアップされたのでしょうか?

僕が入る前は売上げが130億円で、大赤字。いよいよ経営破綻かなというところまできていたようです。その頃の入場者数は年間で120〜130万人でしたが、今では300万人を超えています。利益もかなり上がるようになりました。

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ハウステンボス内に設置されたゴミ箱も渋谷氏のアイデアとデザインによるもの。景観を損ねないための工夫が光る

「ワクワク」こそ、いい仕事を生む原動力

―商品本部長として3つのセクションを任され、その中でプレッシャーはなかったのですか?

商品部門については、「自分以上に作れる人がいるか?」っていうぐらい自信はありました(笑)。製造のノウハウを持っていましたから、直接指導することでスピード感をもってできている部分があって、そういう点において他の人ではできない成果を作ることができたと自負しています。
ただ、ユニフォームや食材、ワインなどを調達する部門は初めてだったので、わからないことだらけでした。でもそれも、チームのみんなと一緒に楽しみながらやることが大事。「この米は美味しい」「このスパゲティーの麺は美味しい」「よし、これだ!」と、常にワクワクしながら取り組んでいました。テナント事業も、 「キデイランド」を再生した時に、テナントとして大型のショッピングモールなどに入る立場を経験しているので、応募する側の気持ちもわかっていたんですよ。ですから募集する側になったときも、そのときの経験を活かして新しい店舗を次から次にお招きして、活躍してもらいました。今でもその人たちとは良い関係をいただいています。

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―「ワクワク」というのが一貫したキーワードのようなのですが、ルーツは最初のおもちゃ作りにあるのでしょうか?

僕の父がおもちゃ工場を経営していたことも確実にベースとしてありますが、それとは別に、自分自身で学生時代から考えていました。自分が一生やる仕事ってなんだろう?と。自分が本当に好きじゃなきゃ、一生続かない。自分に正直になり、長くチャレンジャーでいたい。ならば、子どもに関する仕事をしたい、自分の作ったおもちゃで子どもたちがワクワクする姿を見たい、と思ったのがルーツですね。

―ご自身が大人になった今、子どもの目線に立って、おもちゃがどういう動きをしたらワクワクするのかを発想するのって、なかなか難しいことですよね

確かに簡単ではありません。でも、そこの気持ちを探っていくっていうところが、楽しいんですよね。ハウステンボスでも商品開発をかなりたくさんやりましたが、僕が商品を手がけるときはいつも、それを手にするお子さんの気持ち、お客様の気持ちを思い、想像して作ってきました。他のパッケージデザインもそうですが、自分がそれをもらった時に、その老舗のブランドの重みが感じられるか。「あっ、こんないいものもらった」と心が弾むかどうか、いつも考えますね。

―そういうワクワクする気持ちだったり、楽しみながらという姿勢が、キラリと光るものや、人を惹きつけるものを生み出す秘訣なんですね

そうですね。おもちゃであったり、雑貨であったり、ロボットだったり、いつも遊び心で、みんなに共感してもらいたいという気持ちで作っています。考えてみると、自分で会社を起こして、デザイン雑貨を作り出した時から、自分が好きなものを作り続けているんです。「自分がやりたい」というものを追いかけて、形にする。それをとことん続け、繰り返しているような気がしますね。わがままと言えばわがままですが、一直線に追いかけて走っているつもりです。

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