漁と食堂で感動を生み出す。6次産業のパイオニア
(株)くらしさ 長谷川 浩史&梨紗
2019/02/27 (水) - 12:00

都心から車で小一時間。横須賀の走水海岸のほとりに、週末ともなると大勢の人で賑わうお店があります。漁師小屋をリノベーションしたカフェ&レストラン「かねよ食堂」。オーナーは「ジョン」という愛称で親しまれている金澤等さん。彼が目の前の海で獲った魚介や海藻を、新鮮なうちにお洒落な空間で食べられるとあって、オンシーズンには予約必須です。6次産業の先駆けのような存在ですが、ここに至るには様々な紆余曲折がありました。

様々なものが入り乱れた環境で

走水海岸の静かな海辺に佇む「かねよ食堂」。目の前には海と空が広がり、居るだけで晴れ晴れとした気持ちになれる環境です。

「米軍基地のある横須賀で、目の前に広がる海は東京湾。すぐ近くまでは埋め立て地ですが、ここは自然のままの砂浜が残っていて。毎日、漁船やタンカーが活発に行き来するなか、遠くには横浜のネオンや川崎の工業地帯が臨める。ここはいわば日本の縮図のような場所なんです」

そう話すジョンさんがこの場所に引っ越してきたのは、9歳のときのこと。代々、漁師の家系のお父さんの元へお母さんが嫁いできたことで、ここでの暮らしが始まりました。

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もともとの「かねよ食堂」は、お父さんが獲った魚介や海藻を、お母さんが調理・提供する夏場だけオープンする海の家でした。夏以外には、ご近所さんとBBQをしたり、友だちと集ったり、いわば庭のような場所だったそうです。

ただ、魚は獲れなきゃお金にならない。夏場だけオープンする海の家も、人が来なければお金にならない。おそらく生活的には相当、困窮していただろうと、ジョンさんは当時を振り返ります。そんな生活のストレスからか、お父さんは酒に溺れることもしばしば。

「よくやさぐれなかったよねと、近所の人からは今もいわれます(笑)。逆に、早くそんな経済状況から2人を解放させてあげたかった。そうすればお父さんも漁師という生きざまを貫ける。お母さんも大好きな人をもてなすことに、あくせくしなくて済む。なので、高校卒業後は当然、大学に行くつもりはありませんでした」

どこまでも人の良さがにじみ出るジョンさんですが、とかくこの場所を気に入っていたことは間違いありません。

海外のカルチャーから得たヒント

高校卒業後は、複数のアルバイトを掛けもちして、ひたすら働いたそうです。飲食店、バーテンダー、内装、IT系、ライフガード等々。そして、機会を見つけては、大好きなサーフィンをしに、海外のサーフポイントへ足を運びました。

カリフォルニア、メキシコ、ハワイ、オーストラリア、台湾、インドネシア…。訪れる先々でジョンさんが欠かさずやっていたことがありました。そのエリアでサーファーたちから一目置かれている海辺のカフェやレストランへと足を伸ばすのです。そして、そこで現地のサーファーたちの暮らしを見るなかで、ジョンさんはこんなことを感じます。

「オーガニック、ヨガ、朝ラン、心地よい音楽、カフェ文化など、いまでこそ日本でも一般的になりましたが、20年ほど前から先進的な海外のサーファーの間では当たり前でした。彼らは自然と関わりながら、健康に生きていくための術を知っていたんですね。これから日本でもそんな生き方が求められるようになる。そう感じたんです」

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同時にカリフォルニアへ訪れる際には、必ず近くのメキシコへも足を運んでいたそうです。

「メキシコの浜辺には、まさにうちと同じような漁師の暮らしがありました。そんな場所へアメリカの富裕層も訪れるんですよ。魚を買い付けたり、食堂でシーフード料理を食べたり。富裕層もリアルな暮らしを求めているんだなと」

こんな風に海外のサーファー、漁師、富裕層など、様々なレイヤーの人々の暮らしを見ていくなかで、ジョンさんの中に確信が生まれていきます。

都心の喧騒から少し離れた「かねよ食堂」から、これからの日本で求められるであろう生活を豊かにする要素(空間、アート、音楽、食など)を発信していけば、必ず受け入れられる。

新生「かねよ食堂」オープン

同じ頃サーフィンとは別に、ジョンさんが取り組んでいたことがありました。海辺に打ち上げられる流木を使った創作活動です。

「はじめは仲間と単純に、サーフィン中に見つけた流木がかっこいいな、ということからスタートしたんですけど、思いのほかハマりまして。友人の家が大工だったので、その工場を借りて、ひたすら創作活動に没頭していました」

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創作した流木アートは、人から求められるようにもなり、だんだんと何かを作ることに対しての自信が芽生えていったといいます。この力がまさに、かねよ食堂の再建に生かされました。

こうして構想とスキルに裏打ちされる形で2003年、母体である「海の家かねよ」から、「かねよ食堂」として再スタートさせます。

お母さんが築いてきた「食堂」という、老若男女に開かれたイメージを引き継ぎながら、自身が培ってきた海外のカルチャーを彷彿とさせる空間ができあがりました。

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時代が求めるワン&オンリーを目指したというお店は、はじめサーファーやアーティストたちから支持され、大手ジーンズメーカーがイベント会場として選んだことも相まって、瞬く間に口コミで広がっていきました。

それでもお父さんからはずっと反対されてきたといいます。

「主としてのプライドと、自分のテリトリーを侵される感覚だったんじゃないかと思います。その状況を打破すべく、経済的に安心させてあげられる状況と、任せても大丈夫という状況を早くつくりたかった」

とはいえ、漁師小屋を改装した空間は冬は寒く、なかなか年間通しての営業は難しかったそうです。初年度は冬場に1週間、2年目に2週間、3年目に週末営業と、徐々にステップアップ。さらにバリスタの友人やシェ松尾で働いていた料理人など、少しずつ共に働く仲間にも恵まれ、海の家から本格的な海辺のカフェ・レストランへと変貌を遂げていきました。

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そして、初めて営業利益の100万円をお父さんに渡したときのこと。

「お前は軍曹だからもう大丈夫だ、っていわれたんです(笑)。戦争映画好きな父だったので、軍曹っていうのは部下が100人いるらしいです」

ジョンさんが初めてお父さんに認められたと感じた瞬間でした。

数々の試練を乗り越えて

こうして段々と評判と信頼を確立していったかねよ食堂は、その後も「art on the beach」と題したアートイベントや、有名アーティストのライブを頻繁に開催。サーファー、アーティスト、ミュージシャンたちからの支持を確固たるものにしながら、一般の人たちへもその評判は広がっていきました。

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「それまでお父さんが獲った魚が、市場では100円にしかならなかったところを、ここでは1000円の付加価値を付けることができる。そして、この場所そのものを価値あるものにすることで、仮に埋め立ての話とかが出ても皆で守っていくことができる。僕は飲食店のオーナーになりたかったわけじゃなく、ここでの暮らしを守りたかっただけなんです」

そしてスタートから10年、同時に引き継いでいた負債も返済が完了し、本当の意味でようやくスタート地点に立てたと、ジョンさんは振り返ります。しかし、それから先も数々の試練が待ち受けていたのです。

まずは漁師小屋を改装しただけの建物が、建築基準等の条件を満たしていないと指摘が入り、建て直しを余儀なくされます。返済しきったばかりで新たに借金をすることになるものの、

「キャパも足りなくなっていたので、いっそ拡張したかったですしね。本格的な料理を提供していくためにも、キッチンも広げて新調できたことは良かった」

と、ジョンさんはあくまでも前向き。お店も半年間クローズし、基礎からやり直したお店は、以前の雰囲気そのままに、さらに広く快適な空間に生まれ変わりました。

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リニューアルによってキャパシティも広がり、さらに繁盛していったかねよ食堂ですが、そんな矢先、今度は最愛の母親に病魔が襲います。

「ガンが見つかったときは、既にステージ4でした。助けてあげることはできませんでしたが、母が創ってきたかねよ食堂というベースをここまでの形にできたことを見せてあげられたことは良かったです」

涙ながらにそう話してくれたジョンさん。いまでもお母さんの味を求めて訪れるお客さんもいるようで、「地魚の煮付け」はお母さんのレシピそのままに提供し続けているそうです。

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そんなお母さんを亡くした半年後、漁に出るモチベーションを失ったと話していたお父さんに、今度は食道ガンが見つかります。それまで漁についてはお父さんの聖域で、ほとんど教えてもらってこなかったそうですが、これを皮切りに一緒に漁に出るようになったそうです。

「教わるというより、見て覚えるという感じですね。最後の最後までお前には無理だっていわれ続けてましたから」

懸命の治療もかなわず、翌年、お父さんも他界。結局、漁の術をすべて教わりきることはできませんでした。

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6次産業のパイオニアの向かう先

それから2年、漁業権も取得し、ほぼ毎日のように漁に出るジョンさんですが、いまでも自身のことを“漁師”ではなく、“漁業従事者”としか呼んでいません。

「漁師としての父の生きざまは、収獲がないとお金にならない覚悟で臨んでいましたからね。自分には食堂もあるし、両方を成立させるためにバランスが必要」

地産地消が叫ばれるものの、自由貿易が進み安価な輸入品が台頭するなか、漁師や農家が市場への出荷だけで生計を立てていくことは大変です。そんななか、ジョンさんのような、いまでこそ“6次産業”と呼ばれるスタイルで、ワン&オンリーを追求していくことは、1次産業への大きなヒントではないでしょうか。

いまでは、魚のさばき方から食べ方まで指南するワークショップを展開したり、漁で獲れる海藻類を畑の肥料にして、そこで採れた農産物を食堂で提供したりと、ここでしか出来ないことの追求に余念がありません。

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また、この春、父親になる予定のジョンさんは、子どもたちが育つ場になれればとも話します。地域コミュニティの拠点となって、自分が食べるものがどこからやってきて、どのように調理されるのか。子どもたちに“食べる”ということを伝えていく活動もしていきたいと構想を語ってくれました。

「結局、身の丈に合ったことしかできないので。“漁”と“食堂”という空間をベースに、できることをやっていきたい。毎年、身の丈レベルの最大限を目指してやっていきます」

最後にジョンさんに、成功の秘訣を伺いました。

「何かを失うということは、何かを手に入れること。変化を恐れず、進化として受け入れていくこと。あと、自分が何に感動するか、それに従うこと。心が揺さぶられるほどに感じるものがあれば、そこに徹底的に向き合って、自分の想いにどん欲であること。その想いは必ず人に感動を与えてくれます。そして必ず、その強い想い、想像は形になります」

そうジョンさんが話すように、かねよ食堂の一つひとつは、すべてジョンさんかその家族、仲間たちの想いによって創り上げられたもの。だからこそ地に足着いた居心地の良い空間になり、人々を魅了し続けているのかもしれません。

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かねよ食堂 店主

金澤 等さん(通称:ジョン)

1979年横須賀市生まれ。横須賀の走水海岸に佇む「かねよ食堂」を2003年にオープン。海外で培ったセンスをふんだんに活かした空間と、目の前の海で採れる魚介や海藻を使った創作料理で、瞬く間に人気店に仕上げる。“漁”と“空間”をベースに、ワークショップも展開し、横須賀の拠点として注目を集める。

このインタビュー記事は、2018年4月24日、SelfTURN ONLINE にて公開された記事を転載しています。

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