たたら製鉄の流れをくむ高級特殊鋼「ヤスキハガネ」に、日本刀作刀の伝統技術を応用した精密加工で挑む
GLOCAL MISSION Times 編集部
2017/06/19 (月) - 12:00

特殊鋼にさらに高い価値を与え、他を圧倒する品質で勝負

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島根県安来市は県の東部、鳥取県との県境に位置する。JR安来駅はJR米子駅から10分ほどの距離だ。民謡の安来節で有名だが、安来の名を冠したブランドはもう一つある。日立金属安来工場でつくられる高級特殊鋼「ヤスキハガネ」だ。高硬度でありながら、粘りと耐久性があるのがヤスキハガネの特性だが、その硬さゆえ加工が難しい難削材でもある。

このヤスキハガネの加工、熱処理、精密仕上げを社内で一貫対応し、すぐに使える形にして世界中に送り出しているのが守谷刃物研究所だ。ヤスキハガネという特殊鋼にさらに高い付加価値を与える加工技術、安定的かつ高水準の品質を維持する検査技術が同社の「質の量産」を支える。

その一つが自動車のパワーステアリング等に使用される油圧ポンプ部品である「ベーン」。守谷刃物研究所製のベーンは世界トップシェアを誇り、毎年1,000万台以上の新車に搭載されている。

日本の主力大型ロケット、H-IIAロケットの切り離しに用いられる「ロケットカッター」も同社の製品で、高い精度や耐久性が求められる航空宇宙関連の分野で使われている。他社には真似できない精度の高い技術と安定した品質で、守谷刃物研究所には世界から引き合いがある。

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株式会社守谷刃物研究所

株式会社日立製作所安来工場の専属協力工場として、刃物を開発する守谷作業所を1953年に創業。1956年に日立製作所安来工場刃物研究所の閉鎖に伴い、守谷刃物研究所を設立し、独立した。世界的に高い品質と信頼性を誇る「ヤスキハガネ」の特性を最大限に生かした加工技術と安定した品質を維持する検査技術で、自動車・航空宇宙機器・医療器具など、さまざまな分野の製品開発を行う。

住所
〒692-0057 島根県安来市恵乃島町113-1
設立
1956年1月
従業員数
186名
資本金
1,000万円

1953年04月

安来市潮美町に守谷作業所を創業。守谷善太郎が代表取締役に就任

1956年01月

日立製作所安来海岸工場内に守谷刃物研究所を設立

1966年09月

安来市黒井田町200-29に工場を移転

1979年10月

守谷弘善が代表取締役に就任

1984年08月

安来市恵乃島町113-1に本社・工場を移転

1989年06月

守谷光正が代表取締役に就任

1996年07月

Hitachi Metals America, Ltd.との共同出資により、米テネシー州ニューポートに新会社NPI(Newport Precision Incorporation)を設立

2001年06月

守谷光広が代表取締役に就任

2003年03月

車載用(トラック、乗用車等)および油圧ポンプ用ベーンの製造でISO9001:2000認証を取得

2008年04月

東京営業所を開設

2009年03月

NPIを解散

2013年10月

ISO/TS16949:2009認証を取得

ものづくりの柱は、
ベーンを中心とする自動車関連部品、その他の加工品、研究開発

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守谷刃物研究所のものづくりを語るうえで、欠かせないのが「ヤスキハガネ」だ。島根県は古代から良質な砂鉄が採れ、それを原料に木炭を燃料にした独特の製法「たたら製鉄」が発展した。

中でも日本刀の素材である玉鋼の国内屈指の産地、奥出雲に隣接する安来は、玉鋼の積み出し港として栄えた。物資と人の往来があれば、自ずと製鉄の技術、知識、情報も集まり、それが下地となって、日立金属安来工場が設立された。ここでたたらの伝統を受け継ぎ、昇華させた高級特殊鋼がヤスキハガネなのだ。

守谷刃物研究所のものづくりの柱は、ベーンを中心とする自動車関連部品、その他の加工品、研究開発の3つに大別される。売り上げの3分の2を占める主力製品が自動車用油圧ポンプ部品であるベーンだ。例えば自動車に搭載されるパワーステアリングでは、エンジンの回転パワーを油圧ポンプに伝達し、発生した油圧を利用してハンドルを楽に回せる仕組みになっており、ベーンはポンプの羽根の部分を指す。

普通乗用車には通常、10×8×1.5ミリ程度のベーンが10枚使用され、1分間に3,000回転以上回るポンプ内で出たり入ったりを繰り返すため、耐久性、耐摩耗性が求められる。

世界シェア27%を占める自動車用油圧ポンプ部品「ベーン」

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自動車関連部品は品質の信頼性がシビアに求められる。守谷刃物研究所のベーンが2017年5月時点で世界シェア27%を占めるのは、ヤスキハガネという硬度と耐久性に優れた特殊鋼に、寸法精度の高い超細密加工や特殊な表面処理加工ができる点にある。「品質、生産能力、提案力が当社のアドバンテージになっています」と工場長の秦直己氏は語る。

ベーンの品質管理については、専用の自動検査装置を自社開発し、厚み10,000分の1ミリ公差というサブミクロン、またそれに準ずる精度の平面度、直角度を保っているかという検査を毎月1,000万個以上の製品に対して行う徹底ぶりだ。守谷刃物研究所のベーンが組み込まれた油圧ポンプは世界中の多くの地域で自動車産業を支え、品質、生産量の両面で他社を圧倒する。

増加してきているとはいえ、電気自動車や燃料電池車はコストがかかるため、世界的にも2025年までは油圧ポンプの需要が見込めると同社は見る。「主戦場は海外。営業展開も海外のウエートは60~65%で、特に2018年をめどに中国の自動車メーカーへの販売を強化。2018年以降は北米での拡販へとシフトしていく計画です」と秦氏。

自動車部品以外の加工品は多岐にわたる。量産部品ばかりでなく小ロット生産や試作にも応える体制を整え、ヤスキハガネで培った特殊鋼への精密加工技術と安定した品質は、ニッチな分野で高いシェアを占める製品が多い。例えば、ロケット打ち上げ後、人工衛星を切り離す際に使われる「ロケットカッター」には、守谷刃物研究所で培われた刃物技術が生かされており、高い品質と信頼性で日本の宇宙開発の一翼を担っている。

熱処理技術に息づく刀鍛冶の技

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守谷刃物研究所では、材料の調達から、切断、精密加工、熱処理、品質管理までを自社で一貫対応する。同社の一貫製造の工程の中で、刃物の精度に大きく影響するのが「熱処理」だ。

日本刀を例に挙げると、古来、刀鍛冶は焼入れと鍛錬を繰り返すことで、折れず曲がらずよく切れる日本刀をつくり上げていた。この日本刀の工程を再現するために、同社では真空焼入炉を導入し、酸化・変形のない高水準な「焼入れ」と「焼戻し」を行う。用途や材質に応じた処理を施し、常に安定した品質を維持することで顧客の信頼を得ている。

守谷刃物研究所を支えるのは、ものづくりに対する探究心や挑戦する人の姿勢だ。客先から図面が提供された時点で断るという選択肢はなく、「どう製作するか」を考え始める。「もっとこうすればよくなる」という提案は、全ての案件において行う。技術のプロフェッショナルとして、妥協せず意見を述べる。

全従業員がこうした姿勢で仕事に取り組むため、長い付き合いの客先になるほど、「この案件は守谷刃物研究所のあの人に依頼したい」「あの人に相談しなくては」と、社名でなく個人名で相談や依頼がくるようになるのだ。

守谷刃物研究所には驚くべきことに、他社と比べて最新の設備があるわけでも、特殊な設備があるわけでもない。大切にしているのは、設備を操る人の手であり、人の目だ。数ミクロンの精緻な加工を仕上げる手であり、サブミクロンの誤差を瞬時に見つけ出す目。それは経験の積み重ねと飽くなき探究心から育まれる。

受け継がれてきた質の高い製品を量産する技術

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創業者の守谷善太郎氏は守谷光広代表取締役の祖父にあたる。「1本の刀をつくるには、鉄の塊を鍛造する刀鍛冶、鞘(さや)をつくる鞘師、できあがった刀を研ぐ研師など、作業を分担するのですが、祖父は刀好きが高じ、自ら勉強して全工程を一人でやってのける技量を持ち合わせていたそうです。刀匠『青龍斎宗光』として『無鑑査』(※)の資格を得たといいます。第二次世界大戦中に大陸へ渡り、軍刀の製造を手がけていましたが、終戦を迎えて軍刀の需要が激減する中、質の高い軍刀をつくる技術をもっと高め、付加価値のある商品の開発のために研究を重ねていたようです」

刀を量産する技術があるうえ、研究熱心な善太郎氏は日立金属(当時の日立製作所安来工場)に声を掛けられ、刃物の研究を担うこととなる。1953年に日立金属の研究開発・鋳鋼加工子会社として守谷作業所を創業。1956年に分離・独立し、新たに設立したのが守谷刃物研究所である。以来、親族で代々経営を受け継ぎ、守谷氏は4代目になる。

「刀は研いで仕上げますが、精密さを要求される研ぎの工程は難度が高く、鋼の扱いを理解していないとうまくできません。量産する場合はなおさらで、鋼の性質を知ったうえで研ぎ方が均一になるようにコントロールする必要があります。当社の高度な精密仕上げの研削技術は、祖父の代から研究を重ねてきた結果といえます」と守谷氏は語る。

(※)主に芸術分野において、ある特定の展覧会や団体・同人から、過去の入選実績などにより、鑑査なしで出品できること。

時代の一歩先ゆく技術で製品開発

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創業当初こそ刃物開発に特化していたが、次第に刃物以外の製品生産が増えていった。守谷刃物研究所の飛躍のきっかけとなったのが、VHSビデオデッキに使われる「モーターシャフト」だ。設計通りの120×?6ミリのサイズに仕上げなければ、ビデオテープの再生時にノイズが発生してしまう。0.5ミクロンのずれがあっても使い物にならない。

「材料の使い方、精密加工のノウハウがあった当社は、厳しい加工精度の基準をクリア。月10万本の量産に成功し、全ての家電メーカーのモーターシャフトを生産することになり、最盛期には月産100万本に達することもありました」と守谷氏は振り返る。

しかしその後、技術革新が進みシャフトの形状が小型化。つくりやすくなるにつれ、他社でも生産が始まり、製造価格も下がる一方となった。ついには採算が合わなくなり、撤退。VHSも時代とともにDVDやブルーレイ・ディスクへと変わり、インターネットでも鑑賞できるようになるとVHS自体が消えていった。守谷氏は言う。

「当社の部材は、メーカーの製品のライフサイクルが終わってしまうとともになくなる。30年前に引き合いのあった人工関節も当初は難度の高い技術が求められ、当社だからこそできた精密加工でしたが、楽に削れる機械が登場すると、途端に価格競争となり、撤退せざるを得ませんでした。ライバルメーカーが増えても当社のベーンがトップシェアを占めるのは、品質を高水準に維持したまま量産できる体制があるから。質の量産を追求していくとともに、ヤスキハガネという高品質の材料を使った新たな分野の製品開発を模索し、付加価値の高い製品づくりを続けていくのみです」

ものづくりにかける飽くなき探究心というDNA

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「ややこしいものほどつくりがいがある」と守谷氏は言う。刀匠であった祖父のものづくりにかける飽くなき探究心は、守谷刃物研究所のものづくりのDNAとしてそのまま4代目の守谷氏にも、社内にも引き継がれている。試作、試験、研究を重ね、新たな課題や目標に挑戦する姿勢は設立時から変わらない。「だから、刃物研究所という社名も変えません。この社名に当社のものづくりの姿勢が表れているのですから」と守谷氏は決意を新たにする。

「ものづくりをしていると壁にぶつかって、自分で悩む時間も必要ですが、今は社会環境も変わり、規制も多いので、社内でそんな時間をとることも難しくなっています。でも、やる気のある社員には、業務に関連のある通信講座受講料を全額補助する制度や、技能士検定合格者に報奨金を用意するなど、勉強したい、向上したい、という意欲に応える体制を整え、ものづくりの面白さを知り、伸ばす環境を作っています」と力を込める。

「縮小する国内の市場でパイを奪い合うのではなく、販路を世界に広げ、ヤスキハガネという世界に通用する材料を使った高付加価値の製品を世界の市場へ届けていくためにも、難度の高い依頼や課題に真摯(しんし)に対応し、当社でなければできないものづくりに精いっぱい取り組んでいきたいです」

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株式会社守谷刃物研究所 代表取締役

守谷 光広

1959年生まれ。1984年に東京工業大学大学院修了、日立金属安来工場に2年間勤務後、株式会社守谷刃物研究所に入社。1996年、Hitachi Metals America, Ltd.との共同出資による新会社NPI(Newport Precision Incorporation)設立に伴い、渡米。2001年に守谷刃物研究所の代表取締役に就任。協同組合安来鉄工センター理事長を務める。

自分が育った地で子どもたちを育てたい

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管理部総務課の森脇龍介氏は大学進学を機に島根を離れて大阪へ転居し、卒業後もそのまま大阪の企業に就職。大阪の女性と結婚したが、子どもが小学校に入学する2009年、32歳のときに家族とともに郷里の松江市にUターンし、守谷刃物研究所に入社した。

「大学卒業後に就職したのは、大阪にある携帯電話の画面などを設計する会社。仕事も大阪での生活も特に不満はありませんでした。ただ、当時すでに日本の携帯電話市場は飽和状態にあり、将来への不安はあったため、ある程度の年齢になったら、松江に戻ろうとは漠然と考えていました」

子どもが生まれてから、ますます松江での人生設計を具体的に考えるようになったと森脇氏は言う。「都会で、便利な大阪での生活には満足していましたが、自然の中でのびのびと楽しく過ごした子ども時代のことを思い出すと、子育て環境として大阪は窮屈だな、と感じていました。自分が育ったところで子どもたちを育てたかったですし、地元で働きたいとも思っていました」

いつかは松江へUターンしたいという思いは、常々妻には伝えていたが、折を見て話す機会を増やし、妻の意見も聞きながら夫婦で具体的に松江での生活を考えるようになった。「いきなり話を持ちかけるのではなく、段階的に話し合いをしていったので、妻も私の思いに共感し、理解してくれたことがうれしかったですね」

安来で世界を相手にビジネスをしている会社があることの驚き

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松江へのUターンが決まり、すぐに就職先を探し始めたという森脇氏。地元の企業を調べていくうちに、島根県の法人税ランキングに社名があり、業績の良い守谷刃物研究所を知った。

「安来で世界を相手にビジネスをしている会社があることが意外で、興味を持ちました。地元に帰ったら、人間関係のストレスに煩わされず、楽しく仕事がしたいと思っていました。だから、この職場なら、自分の個性が生かせるのではないかとも感じました」と森脇氏。

面接のとき「何でもやる会社だから」という社長の一言で、新しいことに挑戦できる会社だと直感したという。入社が決まり、森脇氏が配属されたのは管理部。経理を担当することになった。

「前職の設計とは全くの畑違いで、未経験でしたが、仕事が決まれば、あとは取り組むだけ。必死に仕事を覚えて、早くものにしたいと思っていましたから、毎日が刺激的でした」と入社当初を振り返る。「自分一人で決算をまとめ終えたときは達成感がありました。外貨管理をするようになり、会社が世界とつながっていることをあらためて実感しますね」

都会に固執しなくても地方でできることはたくさんある

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2009年に松江にUターンしてから7年。大阪ではマンション暮らしだったが、今は松江市内の戸建てに住み、満員電車に乗ることもなく、毎朝マイカーで通勤。小学生だった子どもも今は中学生だ。公私ともに充実した日々を送っている、と森脇氏。

「守谷刃物研究所に入社してから安来に対するイメージが大きく覆りました。こぢんまりした町でも世界を相手に勝負する会社がある。だから、都会に固執しなくても地方でできることはたくさんあるし、見つけられると実感しています。田舎でも、思っていた以上に刺激がありますよ」

経理の仕事は地味に見られがちだが、縁の下の力持ちとして会社を支えている自負がある。だから究めていきたいし、それができるのが守谷刃物研究所という会社だ、と森脇氏は言う。職場も自宅も人との距離が近く、それが心地いいとも語る。

「仕事もプライベートも幅広い経験ができることに充実感があり、松江に戻ってきたことを家族全員が喜び、楽しんでいることがうれしいです」

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株式会社守谷刃物研究所 管理部総務課

森脇 龍介

1976年生まれ。島根県松江市出身。大阪の大学を卒業後、大阪市内の携帯電話設計会社へ就職し、約10年勤務。2009年に家族と共にUターンし、守谷刃物研究所へ転職。自宅のある松江市から安来市の会社までマイカーで通勤している。

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