金沢に育まれ、磨かれてきた390年、 酒造メーカーならではのイノベーション
2017/10/02 (月) - 13:00
GLOCAL MISSION Times 編集部

生まれたて“百歳”の水

北陸三県の中心的都市、金沢には日本三名園の一つ「兼六園」がある。園の敷地を挟み込むように流れるのが犀川と浅野川。この二つの川が接近する場所、扇の要の位置ともいえる、小立野(こだつの)台地に、株式会社福光屋はある。

社屋の直下150mから取水される「仕込み水」は、100歳。同社で命名された「百年水」は、霊峰白山を源流とする100年前に降った雨水が、幾重もの貝殻層にろ過され、養分を蓄え、長い時間をかけて小立野台地にたどり着いたものだ。同社は、この「百年水」に、肥沃な大地で生産された「米」と独自の「酵母」を用いて純米酒を造り、国内はもとより海外の日本酒ブームの火付け役ともなった。

また、新規事業として食品や化粧品の開発・製造・販売にも取り組んでおり、もはや、酒造メーカーという単純な枠組みでは表現しつくせない独自の進化と、それらを支える米発酵技術やマーケティング手法に、興味深い挑戦の物語が存在している。

株式会社福光屋

1625年創業の、金沢市内で最も長い歴史を持つ酒蔵。直営店は「SAKE SHOP 福光屋」各店をはじめとして、地元金沢や東京・銀座などに6店舗、ほかにオンラインショップも展開する。お客様との接点、声を大切に、長い間に培ってきた米発酵技術を生かし、食品、化粧品の分野にも事業として参入を果たしている。

住所
〒920-0935 石川県金沢市石引2-8-3
設立
1949年1月(1625年創業)
従業員数
113名 ※2016年7月1日現在
資本金
3,200万円

激減した日本酒の消費量。福光屋が見いだした活路

福光屋が蔵を構えた石引の町名は、『金沢古蹟志』によると金沢城普請用の戸室石の搬出に使用した道であったことに由来する。霊峰白山を源流とする湧き水が豊富で米も十分に備わっていた石引通り沿いには、古くから造り酒屋が軒を並べていたという。

造られた酒は石切りや石引きの職人をはじめ、寺詣での人々、上級藩士から足軽などに至るまで店先で楽しんだことだろう。創業以来、390年の時をつなぎ現在に至る同社だが、苦しく多難な時代もあった。昭和50年代後半をピークとして、日本酒は、ウイスキーや焼酎に押され消費量が3分の1以下に減少してしまったのだ。

しかし、同社は時代の移り変わりをしなやかに受け止め、地酒ブームの波に乗り「黒帯」を発売する。業界や他社に先がけてマーケティングという概念を取り入れ、キャラクターによるCM展開やイベント、キャンペーンなどを駆使し、北陸のみならず中部、東海地方で販売石数36,000石というナンバーワンの地位を確保した。

また、1988年にはCIを導入し、著名なグラフィックデザイナー、松永真氏によるコーポレートマークや、「福正宗」のラベルデザインを一新、団塊の世代や若い層に飲みやすい酒造りを目指す。アルコールを添加して量を増やす従来の製造法に終止符を打ち、2001年、すべての酒を水と米だけで造る「純米蔵宣言」を発表した。いつの時代にあっても、その方向性を明確に打ち出し、革新的な試みをいとわないという社訓が、今日まで闊達(かったつ)に息づいている。

1万種の中から見つけた、一つの異種

酒造りの工程で「酵母」の役割は大きい。酒の味や風味を決めてしまうといっても過言ではない。生産本部醗酵研究所では日夜、酵母の研究開発がなされている。シャーレ(実験用のガラス製の平皿)の上で一度に作られる酵母の数は100~200種類になるという。

これまで1万種の酵母を作り、その一つ一つを取り出し、性質や機能を見極める研究をしてきた。松井圭三常務取締役生産本部長によると、「取り出したものの中で、使える酵母もあれば、使えない酵母もある」という。

しかし、この一見「使えない酵母」、松井氏の言葉を借りれば「できの悪い酵母」、性能的にいうとアルコールを生成しない酵母こそが、同社の「健康美事業」という新しい試みに大きく貢献した。

この酵母から生まれた、ノンアルコールで米を発酵させアミノ酸を主成分とする高保湿自然派化粧品シリーズ「AminoRice(アミノリセ)」は、月間1万人以上が利用するヒット商品となり、酒、食品とならび、同社の主要な事業の一つとなっている。

お客様に接することから、すべては始まる

同社はマルチブランド戦略を駆使している。「黒帯」「加賀鳶」はそれぞれターゲットもチャネルも差別化し、県外から東京、海外へと販路を拡大している。東京では、「金沢の蔵元」というブランドイメージを強く押し出し、松屋銀座店、玉川店、東京ミッドタウン店、丸の内店の4店舗の直営店を運営する。

海外においては、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、香港、中国、東南アジアなど世界各地への進出を果たし、和食ブームを後押ししている。メールの問い合わせ、直営店での商談などを通して、商品開発や店舗設計に顧客の声を積極的に取り入れており、その点において直営店はアンテナの機能を果たしている。

酒造メーカーという枠にとらわれず、「発酵」を核として、「純米、無添加、金沢」というキーワードを強く意識しながら、品質に安心と自信を持って商品開発、販売をする。利岡祥子常務取締役開発本部長は「お客様の声がありがたく、こころ強く、たくさんヒントをいただく」と言う。福光屋の挑戦はいつも、そんな身近なところの身近な声からスタートしている。

酒も変わるし、お得意様も変わる。時代の変化をしなやかに受け止める

福光松太郎代表取締役社長は、大学卒業後、東京の大手食品商社勤務を経て、1977年、福光屋に入社した。当時はテレビCM全盛の時代で、同社も地元のテレビCMに「フクちゃん」という漫画キャラクターを使用し、販路を拡大、順調に事業を拡大していた。テレビCMの効果により、同社は地方都市金沢にあって「大きい」「中央」という社会的イメージを獲得した。

しかし、しばらくして高度経済成長が終えんを迎え、成熟した時代が到来する。大量生産されたもの、テレビCMでよく見る商品だけが売れるような時代が終わったのだ。1985年、13代目の代表取締役社長に就任した福光氏はまず「自分の時代には、先代の父と違うことをしなければいけない」と思ったという。就任時に先代から「世代が変わればお客様も変わるし酒も変わるから、自分たちの時代を一生懸命やれ」と言われたのだ。

初めは実感が湧かなかったと言うが、振り返ると、確かに以前あった商品の面影はなく、取引先も、主体が町の酒販店からスーパー、コンビニ、GMS(総合小売店、大型スーパー)へと移行、老舗料亭などの取引先も世代交代していったという。

高度経済成長の終了と同じころ、第一次地酒ブームが起こり、地方論が語られるようになった。会社も、父がつくってくれた「大きい」「中央」というイメージを、「小規模」「技術志向」「地方発」、まただからこそ「おいしい」というイメージに変えることが課題となっていた。

甘口から、サラッとした後味への変換

「縮める」「集約する」。福光氏が代表取締役社長を任されたとき、経営面で意識したのは、売り上げを伸ばすことや拡大ではなかった。先代が代表取締役社長を務めていた時代は日本酒の消費の全盛期であったが、そこから10年ほどたち、福光氏が代表取締役社長に就任するころには、日本酒の売り上げは約2割下落、その後も衰退の一途をたどっていた。

もともと日本酒の市場を支えていたのは中高年の男性であった。そこにまず、ビールが家庭に入ってきた。ナイター中継を見ながらビールを飲ませるというビール会社の戦略は、「晩酌に熱燗(あつかん)を飲む」という習慣を駆逐した。さらには、ウイスキーの水割り、缶チューハイ、ワインなどにも領域を侵され、日本酒のシェアはますます減少していったのである。

そこで同社が打った手は、新たな市場として女性をターゲットにする戦略だった。食事中に手軽に飲んでもらうために、従来の「ほわっとした甘口」から「サラッとした後味」に変えることを決意。

また、国内の酒造メーカーのほとんどが使っている、国から支給される酵母を使うことをやめ、独自の酵母を開発することにした。酒造りをする人々の働き方にもメスを入れ、期間限定で働く杜氏(とうじ)制度から、社内で蔵人を育成する社員蔵人制度へ転換、技術にこだわる酒造りを実現したのである。

酒造メーカーから、「お米発酵会社」へ

福光氏の代表取締役社長就任から、同社のあり方は大きく変わった。日本酒の製造だけでなく、米を発酵させる技術を活用して、化粧品事業や発酵食品事業も展開しているのである。もはや同社は酒造メーカーではなく、「お米発酵会社」だ。

近年の取り組みとしては、2013年に発表した乳酸菌を使った「コメのヨーグルト」(商品名:ANP71)がある。地元石川県の能登に伝わる「アジのなれ寿司」にも使用されている、健康維持に効果のある菌を使ったものだ。米を原料とした乳酸菌であるため、乳製品アレルギーのある人にも安心して食べてもらえる点が話題となっている。

今後も純米酒は造る、その上で、酒造りで培った発酵技術を駆使し、基礎化粧品や食品に代表される発酵関連の商品開発の道を切り開いていきたいと考えた。さらに、同社は金沢のため、市民のための地場企業であり続け、地域で業績を上げ、企業を発展させ、さらには地域社会に貢献していかなければならないと考えている。社員を育てること、商品開発をすることだけでなく、同社の営みすべてが、地域を豊かにする一助になるのである。

株式会社福光屋
代表取締役社長

福光 松太郎

1950年金沢市生まれ。1973年に慶應義塾大学経済学部を、1977年に慶應義塾ビジネススクールを卒業。同年、株式会社福光屋に入社。1985年に代表取締役社長に就任する(13代目当主)。1999年には、郵政大臣表彰、金沢市文化活動賞を受賞。2001年、石川デザイン賞受賞。2010年、藍綬褒章を受章し、現在は、金沢酒造組合理事長、金沢クラフトビジネス創造機構理事長などの公職にある。

日本酒は「コミュニケーションツール」

福光氏の社員育成方針は単純で明快だ。福光屋では男女による業務上の区別はない。男女問わず、きちんと教え、早く責任のある仕事を任せることが成長につながると考えている。直営店運営、化粧品事業という分野では女性従業員が多いが、あまり意識はしていないという。

これから紹介する2名も、たまたま女性従業員である。その一人、松前歩氏の前職はステーショナリーメーカーの営業企画担当。結婚を機に金沢へ戻ることになり、10年勤めていた会社を辞めることに。石川県内の企業を対象に就職活動を行い、2014年に同社に入社している。

入社して間もなく、前職の経験が生きる営業企画室に配属され、「日本酒を売る」のではなく、「日本酒のファンを増やす」というミッションが与えられた。例えば、フレンチのレストランなど日本食以外のお店で日本酒を置いてもらい、今までにないシチュエーションで日本酒を飲んでもらうなど、新しい日本酒の飲み方、味わい方を開発、すそ野を広げる取り組みを行っている。

その際は必ず、同社の歴史、技術というバックストーリーを伝えるようコーディネートしている。「一つ一つの仕事に対して、その意義や会社の歴史を先輩から教わることができるので、仕事のたびに成長しているなという実感がある」と松前氏。そのときやっていることをしっかり固めていくこと、知識をさらに深め、自分の言葉で発信していくことが大切だという。

「あなたにとって日本酒とは?」という質問に、彼女はずばり「コミュニケーションツールです」と答えてくれた。酒が真ん中にあって人と人をつなぐ。レストランとのコラボレーションや試飲会などを通じて、人と人の関わり、交わりの大切さを経験している彼女だから出た言葉のように感じた。「金沢にいると、東京と違って時間的にも環境的にもゆとりがあるというか、表現はおかしいかもしれませんが、金沢で仕事をしている方が人間らしい生活を送れると思うのです」と語ってくれた。

「福光屋らしさ」とは何か。デザインで福光屋を表現する

企画室の藤田茉緋氏は、神奈川県・湘南のデザイン事務所をはじめ首都圏で10年勤務し、金沢にUターンした人物だ。金沢出身の藤田氏が同社に応募した理由は「拠点が石川にあるけれど、いろいろなところに発信をしていて、ただ酒を売るのではなく多様な展開をしている視野の広い会社だと思った」からだという。また、同社の商品を手土産として購入した折に、デザインセンスの良さを感じていた。

実は藤田氏は、以前にも同社に応募しようとしたことがあった。しかし数年前に同社の求人を見たときには、藤田氏の経験を生かせる職種の募集がなかったのである。数年越しの思いの成就だった。

商品に直接かかわる藤田氏は、これまでとは違う不安と責任があるという。デザイン会社時代よりもデザインそのものの知識や金沢の知識が深まるという恩恵はある。しかし自分がデザインしたものに価格がついて顧客が購入するということは、やりがいがある半面、大きな責任を果たさなければならないという使命感も同時についてくるという。

そんななか、藤田氏は冷静にこう語る。「弊社のデザインは『プラスすること』ではありません。新しいデザインを加えるのではなく、整理整頓して見やすくするイメージ。どう見せるか、何を伝えるのかを考えるところからデザインを考えるようにしています」

「これまでは商品中心のデザインが多かったですが、これからは全社的な仕事、会社のことを伝えるような仕事にも挑戦したい」と意欲を見せる藤田氏は、同社のデザイナーという仕事に奥行きを持たせたいと茶道の稽古にも通いはじめた。「もっと頼ってもらえるようなデザイナーを目指したい」と、その目は輝いている。

株式会社福光屋

■営業企画室 松前歩(写真左)
金沢市出身。東京の大学を卒業後、東京で就職。アパレルメーカー、ハンバーガーチェーン本社スタッフの経験を経て、2004年にステーショナリーメーカーに入社。商品企画・営業・売り場提案業務に従事。2014年8月、株式会社福光屋に入社。

■企画広報室 藤田茉緋(写真右)
金沢市出身。地元の高等専門学校建築学科卒業後、東京の不動産コンサルティング会社勤務、フリーランス、Webデザイン事務所勤務を経て、2014年3月、株式会社福光屋に入社。

GLOCAL MISSION Times 編集部