ダンスで人を幸せにする。ダンサー兼プロデューサー・奥西貴子氏
中河 桃子
2017/12/28 (木) - 08:00

踊り手の憧れ・世界的に有名なテーマパークで、エンターテイナーとしての夢を叶えた奥西貴子さんは、ある衝撃的な出来事に逢い人生が変わったといいます。その後は関西を拠点に、ダンサー兼ダンスチームのプロデューサーとして再出発。果たしてターニングポイントとなった出来事とは何だったのか。第2の人生へと大きく踏み出した彼女の想いに迫ります。

夢は「テーマパークのお姉さん」

幼いころ、母親に連れられてやってきたテーマパーク。華やかな衣装を身にまとい、笑顔をふりまいていたエンターテイナーたちは、幸福感に満ちあふれキラキラと輝いていました。その姿に「大人になったらテーマパークのお姉さんになるんだって決めていました」と奥西さんは語ります。

それは「お姫様」や「スーパーマン」などの子ども心に描いた夢物語ではなく、あくまで“現実の目標”。「叶いっこない」と周囲からいわれるほど、夢への思いが強くなっていったそう。こうしてダンサー兼プロデューサーへの道は一人の女の子の夢から始まりました。

もがき、あがいて挫折を味わった少女時代

9歳から夢の実現を目指した奥西さんですが、当時はまだインターネットがめずらしかった時代。図書館や学校など、情報収集の範囲が限られていました。ましてや子どもが得られる情報はごくわずか。そんななか、わらにもすがる思いで見つけたのが、地元で友人が通っていたバレエ教室でした。

「何をすればいいのかわからなかったけれど、何でもいいからとにかく踊らないと、と思ったのでしょう」と奥西さんは当時を振り返ります。そしてなんとか両親を説得し、バレエ教室に通いだしました。バレエの世界では先輩・後輩に年齢は関係なく、先に習い始めた者が上に立つのが当たり前。3、4歳から始める子どももざらにいるなかでのレッスンは、奥西さんにとって“乗り越えられない大きすぎる壁”でした。

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自分と同い年の子でも、後から入った自分が後輩。もちろん経験年数が違うので実力もケタ違い。どうあがいても追い付けないもどかしさは、筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。それでも悔しさをバネに実力を伸ばし、高校へ入学するころには、大阪で活躍するバレエ団のジュニアバレエ団へ入団するまでに成長。バレエの稽古に勤しむ日々が大学卒業まで続きました。

しかし一つのことに長らく携わっていれば、自分の立ち位置や能力が徐々にわかりはじめます。そんなときはついライバルと自分を比べ、可能性を過小評価してしまうもの。奥西さんも例に漏れず、22歳でバレエを辞める選択をしました。「バレエという狭い世界ですら通用しない人間が、夢を叶えることなんてできない」――今までの頑張りが、まるで水の泡になってしまったかのようでした。

それでも捨てきれなかった夢。5年もの間エンターテイナーになる訓練を大阪で続ける一方、当時所属していたチームを通じて、アメリカのディズニーランドでパレードに出演する機会を手にします。それをきっかけに、ダンス留学への道を目指すことに。そんなときに出会った、後の伴侶となる男性からの一言――「まだ東京で頑張っていないのに、もう諦めるの?」が、彼女の行き先を東京に変えることになりました。

思い知らされたダンスの底力。第2の人生が始まった瞬間

「私にできることを、まだやり残していたのかもしれない」。そう考え直した奥西さんは、29歳で心機一転、東京で再びテーマパークのエンターテイナーを志します。しかし自身の年齢や体力を考えると、挑戦できる時間はあと少し。その期限を自分に課し、ひたすら努力し続けた結果、周囲のサポートもあり、ついに採用を勝ち取ることができました。

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憧れ続けてきた職場で踊る大きな充実感を感じつつも、今まで追いかけてきた夢がなくなり、宙ぶらりんのような感覚に陥っていた2年目のある日。彼女に大きな転機が訪れます。

たくさんの観客が詰めかけるショーに出演するたびに、奥西さんはファンからたくさんの言葉をいただいたのだとか。
なかにはこんな言葉も――「生きることが辛く、明日にも死を覚悟していたとき、あなたのダンスで笑顔を取り戻すことができた。もう一度生きてみたい」。

その多くは「その場を楽しむ」以上に、誰かの人生を明るくするものでした。思いもよらないメッセージに、奥西さん自身が驚いたといいます。それは誰よりもダンスを分かっていたはずの自分が、真のダンスの力を思い知った瞬間でもありました。

「エンターテイナーって、なんて責任のある仕事なんだろうって。お客様は私たちの技術だけを見に来ているのではないんですよね。エンターテインメントは人を楽しませるだけじゃなくて、誰かをいたわることもできるのかもしれない」

「困っている人々に私の仕事が役立つかもしれない」――奥西さんの思いは日に日に強くなり、別の道を見据え始めます。“自分のため”だった夢から、“誰かを想いやる”夢へ。こうして第2の人生が始まろうとしていました。

2度目の第一歩は“才能が集まる場所をつくる”

5年間、プロとして活躍した奥西さんは念願の海外留学を叶えます。その後、日本でもエンターテイメントに携わるべく実家のある関西に拠点を移し、政府が後援するダンス教育振興連盟・JDACで教育指導士の資格を取得。ダンスの指導の勉強に励みながら、レンタルスタジオをオープンします。

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その事業を始めた背景には“ひとつの職業として認められない”ダンス業界の実情がありました。ダンスの踊り手は人気職である一方、常に受け身で、仕事がなければ収入を得る術を知らない、と奥西さんはいいます。

奥西さんの周囲も、才能を持て余しているダンサーやパフォーマー、アーティストがたくさんいたのだとか。もし彼らたちの才能を活かせる場があれば、仕事の可能性をさらに広げられる。その場がレンタルスタジオなら、一人ひとりが個人事業主となり生徒を集めて事業ができる。こうしてそれぞれが実力と頑張りに応じて収入を得られれば、更に別のプロジェクトへ参加できる余裕もできるのではないか。

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自身のダンスチームで、ショーダンスの文化を発信していきたい

またレンタルスタジオのオープンの裏には、まだ関西になかったエンターテイメント業界のネットワークをつくるという狙いもあったそう。「自分から何かを発信したい人は、実力のある人が多い」とは奥西さんの持論。ダンスクラスを運営できるほど力のある人材が集まれば、それはとてつもなく優れた集団になる。そう考え、ダンスチーム「Prime Time」を結成します。

現在、メンバーは奥西さんを含めて20人以上。誰が見てもわかりやすく楽しめることを意識した、正統派のジャズダンス・シアターダンス系作品を中心に活動しています。

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奥西さんはダンサー兼プロデューサーとして、演出、振り付け、曲の編集、衣装の調達などをプロデュース。さらにはスケジュール管理や報酬の交渉、クライアントの打ち合わせと、営業面でもチームを支えています。

宣伝を行っていないにも関わらず毎月出演依頼が殺到しているのは、人づてに評判が高まっている証拠。今年の冬には東京支部も立ち上げ、ますます活躍の場を広げています。

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今後は、ダンスをもっと気軽に楽しむ文化が日本に根付いてほしいと願いつつ、ダンスの力を信じ、教育や医療の現場、企業など、ダンスと社会が融合する未来を目指しているといいます。

彼女の第2のステージはまだ始まったばかり。自身が真からやりたいこと、自分だからできることを重ね合わせた彼女の生き方は、人生に迷う女性達への大きなヒントになるに違いありません。

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ダンスチーム「Prime Time」代表

奥西貴子(おくにし たかこ)さん

1978年、滋賀県守山市生まれ。幼い頃からバレエに打ち込み、ジャズダンス、ストリートダンス、アクロバットなどを習得し29歳で上京。その後、念願のエンターテイナーに。5年の活動を経て関西に戻り、レンタルスタジオをオープン。現在は自身のダンスチームのダンサー兼プロデューサーとして活躍中。家庭では家事に育児にと頑張るママでもある。

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