商社、メーカー、そして海外。生きた流れを未来へつなぐ
BizReach Regional
2018/01/15 (月) - 13:00

商社とメーカー、異なるビジネスモデルで経営基盤強化

大阪市内のほぼ中央に位置する西区。中央部を南北に流れる木津川の西側には、大阪港と市内中央部を結ぶ中央大通りとみなと通りが平行するように走り、周辺には鉄鋼問屋や加工業が集積するエリアが形成されている。そのエリアの一角に本社ビルを構えるトーステ株式会社は、ステンレス配管資材の仕入れ販売を主事業としていた東洋ステンレスと、サニタリー製品を製造販売していた東洋ステンレス工業が、2004年に合併して設立された会社だ。

東洋ステンレスは1960年の創業。現在、営業本部は約3,000社と取引をし、トーステ全体の売り上げの核を支えている。一方、東洋ステンレス工業は、1973年、東洋ステンレスのサニタリー製品の製造をスタートし、1980年に独立、法人化を果たした。食品メーカーや製薬会社などユーザー企業への直販を基本方針とし、製品の生産のみならず、工場内における工事や保守まで一気通貫で担うことで、後発ながらも業界トップクラスのシェアを築いてきた。合併後のトーステにおいても、両社から引き継いだ2つの事業が補完し合い、不況に屈しない安定した経営基盤が築かれている。

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トーステ株式会社

ステンレス配管資材を仕入れ販売する東洋ステンレスは、1964年の広島営業所開設を皮切りに、日本全国へと営業拠点を広げてきた。一方のサニタリー事業は岡山県津山市の工場で生産をスタートし、東洋ステンレス工業として独立した後も津山市を本拠地として業容を拡大。製品の生産から設備工事までを請け負う一気通貫型のビジネスモデルを構築してきた。1996年には中国工場の操業も開始している。合併後も経営状況は順調に推移し、2012年には本社屋を新築するに至っている。

本社所在地
〒550-0022 大阪府大阪市西区本田2-1-32
設立
2004年10月1日
従業員数
341名
資本金
90,000千円

2004年10月

東洋ステンレス株式会社と東洋ステンレス工業株式会社が合併、トーステ株式会社設立

2007年04月

開発試験センターを開設
静岡営業所を開設

2008年05月

大阪支店を大阪市西区境川へ移転

2009年03月

宇部営業所が新社屋を落成し移転

2012年08月

アセスメントエリア落成

2012年11月

肇慶東洋新島不銹鋼工程有限公司の新工場を落成し移転

2012年12月

本社屋を落成

2016年11月

ベトナムに現地法人を設立

ステンレスで創業、サニタリーで独自性を確立し、今へ

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2004年10月、東洋ステンレス株式会社とその子会社、東洋ステンレス工業株式会社が合併し、トーステ株式会社は誕生した。

東洋ステンレスは、建築や社会インフラ、化学プラントなど幅広い産業で使われるステンレス配管資材を仕入れて、二次問屋からエンドユーザーまで幅広く販売する商社として発展。各メーカーとの間に築いた信頼関係の下、たとえ不況下でも比較的安定した商品調達ができることを強みとしてきた。合併後も同事業におけるアクティブな得意先は約3,000社に上り、売り上げの核を形成している。

一方の東洋ステンレス工業は、東洋ステンレスが1970年代初頭に参入したサニタリー事業を担う会社として1980年に設立された。食品や飲料、医薬品などのプロダクトラインで使われるバルブやポンプ、装置などのメーカーとして事業を展開してきた。参入当時から先行企業との差別化を図るために直需路線を取り、製造設備の設計・施工、メンテナンスといったエンジニアリングサービスにも注力。顧客の声を拾い、細かなニーズに対応した製品作りを積み重ねながら独自性を築いた。

そしてビール業界「生ビール戦争」を機に存在感を示すと、続けて製薬業界に市場を広げ、1990年代初頭には業界トップクラスのシェアを確立するに至った。その間、飲料製造を効率化させた二重バルブシール、注射液の止水に使用されているゴム栓の洗浄・滅菌・乾燥の3役を1台で完結できるゴム栓洗浄滅菌乾燥機など、国内初の画期的な製品を多数生み出してきた。

組織改革でつかんだ自信。新たなチャレンジのステージへ

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それぞれ独自の発展を遂げた両社だが、国内経済の低迷が長期化するなか、経営基盤を強化するために再統合にかじを切った。再統合後は、ニッケルバブルとその終焉、リーマン・ショックなど景気の波を乗り越え、自己資本比率42%という安定感のある経営を実現している。

それは営業部門を中心に行った組織改革の成果だ。異なる商流のもとで育まれた異なる文化を統一するために、社員教育に資源を投入し、理念の浸透を図った。人事制度も見直し、人事考課における成果比率を上げて、誰もが納得できる透明性の高い制度を作った。

その成果はてきめんだった。例えば、社内で営業をサポートする事務職の働きはこれまで陰に隠れてきたが、正当な評価を受けるようになったことで自律的な働き方に拍車がかかった。顧客からも高く評価され、社内では重要な戦力として認識され始めている。

ニッケルバブルの終焉、リーマン・ショックと続いた危機も社員が一丸となって乗り切った。その成功体験は全社員の自信へとつながった。

改革を推進してきたのは、赤路博次代表取締役副社長だ。

「安定が継続するなか、トーステは新たなチャレンジの時期を迎えています。当社は社内の風通しが良いと自負しており、特に営業系の社員は明るく真面目で優しい人物がそろっています。しかしダイナミックなチャレンジをするには、異なるカラーも必要です。新しい風を取り入れ、化学反応を起こしたいと考えています」

物流改革、需要開拓、アジア進出。次世代に向け着々と

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チャレンジはすでに各事業で始まっている。

ステンレス事業が取り組むのは、サービス強化による差別化。鍵を握るのは物流だ。2016年には物流構造の改革に向けた社内プロジェクトを立ち上げた。そこにはベンダーとの在庫政策も絡んでくる。鉄鋼業界が縮小し業界再編が進むなか、特定ベンダーとの連携を強め、マーケット制圧を目指す。

サニタリー事業の課題は、新規市場の開拓だ。外部の展示会に積極的に参加するなかで、リチウムイオン電池や半導体などの先端工業の分野で自社製品が使われていることがわかった。一部、問屋を通じて、食品や医薬品など従来とは異なる市場に流通していたのである。その事実を踏まえ、新規市場の開拓を進めている。

さらに少子高齢化に備え、海外事業の強化も進む。再統合以前から中国には生産拠点を構えていたが、今後はアジア全域を消費地として再定義し、展開していく。2016年のベトナム進出を足掛かりに、長期視点でASEAN地域一帯を押さえていく計画だ。

「これらのビジョンが実現すれば、多くのポジションが作られていきます。しかも水平に広がるだけではなく、各部門をより重層的な組織にしていく考えです。経験抱負な人材が活躍する場に事欠くことはありません」

中間層が育てば、若い人材を受け入れる環境も整う。「生きた流れを創る。」という経営理念もよどみなく次世代へと受け継がれていくだろう。

高品質・低価格・短納期。後発企業の使命を組織で追求

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中村敬一代表取締役社長は、1975年、26歳の時に叔父である創業者の中村完治氏に誘われて東洋ステンレスに入社し、津山工場へ配属された。その7カ月後には、東京へ赴任した。当時、ステンレス製のサニタリー製品は国内市場が確立されていなかった時期。東洋ステンレスのサニタリー製品は、95%以上が米国の合弁会社向けの輸出品で、国内市場は手付かずの状態だった。しかし創業者は食品業界向けの継手や配管材、バルブなどは、いずれ日本国内でも必要とされると考えていた。

中村氏自身、食品メーカーの本社が集まる東京のマーケットには興味があった。だが、生産現場で蓄えた製品知識はあっても、営業経験は全くない。未開拓のマーケットなので自社製品の営業ノウハウは社内にも存在しない。日本全国の製造現場を回り、顧客の声を聞きながら自分たちで考えるしかなかった。

一方では追い風もあった。食品工場に対する行政の指導が、サニタリー配管材の使用を義務化する方向へと動いたことで、食品業界の衛生意識が高まったのである。そうめんつゆやだしなど、既存のカテゴリーに収まらない流体食品が次々と商品化されることで、サニタリー配管材の用途も広がった。

そんな時代背景のもとで意識したことは、先行する競合他社よりも高品質で低価格、さらに短納期であることだ。それが後発企業の使命であると考え、工場を含めて一丸となり、ビール業界や飲料業界の最大手クラスを開拓していった。

営業の現場からマネジメントへ。体制の一体化を模索

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東京で一定の成果を上げた後は、大阪に戻り製薬業界に販路を広げた。

「当時の製薬業界は、さまざまな形で国際社会の影響を受けていました。特に米国の公的な認証を取ることによって世界中に製品が出荷できます。そのため米国の生産方式を取り入れた方が良いという考え方が広がり始めていました」

そのように考える製薬会社が、設備の更新や新設をする際に、少しずつ同社製品を導入し始め、3年以上の歳月はかかったが御三家といわれた製薬会社との取引に成功。それが後の事業の安定性へとつながった。「新しいマーケットを開拓することが楽しかった」と振り返る。

この間に東洋ステンレスのサニタリー部門は、東洋ステンレス工業として独立していた。しかし2002年ごろから始まった鉄鋼不況をきっかけに再統合し、2004年にトーステ株式会社が誕生した。東洋ステンレス工業・大阪営業所長だった中村氏は、この機に経営本部に転属となり、一般ステンレス配管資材の商社部門も含めた営業全体を統括する立場となった。

経営本部で取り組んだのは営業体制の一体化だ。一般ステンレス配管資材の商社部門は、製品を在庫し二次問屋へ卸すビジネスモデルであり、化学プラントをはじめ幅広い業界で使われるためマーケットが大きく、比較的安定した環境で営業活動を行うことができた。そういった背景があるため、分社している間に、直需路線でマーケット開拓に邁進してきたサニタリー部門とは異なる文化が育まれたのは当然の結果だった。一体感のある組織作りは、合併を成功させるための重要課題となった。

共通言語を生む取り組みで統一感ある組織風土を実現

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まず取り組んだテーマは新規開拓。特に商社部隊では新規開拓のための組織立った考え方が確立していなかった。そこで外部研修を導入し、自身もディスカッションに参加して共同体験を重ねていった。2年目は1年目に学んだことを実践しながら、並行して次のテーマを学ぶ。それを代表取締役社長に就任した後も毎年継続してきた。「組織的な営業活動をしなければ大手資本に負けます。研修を重ねることで共通言語が生まれ、統一感のある組織風土が実現しました」

トーステの経営理念「生きた流れを創る。」は東洋ステンレス工業から引き継いだ。パイプの中を流れる流体が停滞することがあれば同社のビジネスは成り立たない。同様に顧客との関係や社内の連携など、人と人との関係性を円滑に保つことが企業発展のカギだと考えている。

商社とメーカーでは景気の波が数年単位でずれる。トーステは両方の機能を併せ持つことで不況に強い収益構造になっており、今も自己資本比率42%という高水準を維持している。2007年から2008年にかけてニッケルバブル崩壊、リーマン・ショックと立て続けに逆風が吹いた時期も大きな打撃を受けずに済んだ。

だが国内市場は縮小する一方だ。国内外合わせて約500名の雇用を守り続けるには海外戦略を本格化する必要がある。75年、100年と続く会社を作ることが中村氏の望みだ。プロパー中心に人事を進めてきたが、今後はビジョン実現に向けて外部の風を取り入れ、自社の弱点を発見・克服したい考えだ。

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トーステ株式会社
代表取締役社長

中村 敬一

1949年、大阪市生まれ。1975年4月、東洋ステンレス株式会社に入社し、津山工場配属。7カ月間、物作りを現場で学んだ後、同期と2人で東京へ赴任。サニタリー製品の国内市場開拓に携わり、ビールメーカー、清涼飲料水メーカー、各業界における販路を確立。1985年、東洋ステンレス工業株式会社大阪営業所を立ち上げ、所長に就任。トーステ株式会社として合併以降は、経営本部、専務取締役を歴任し、2010年6月、代表取締役社長に就任、現在に至る。

自分に合う環境は簡単に見つからない。諦めず継続を

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2016年1月、村尾純一氏が入社と同時に配属された大阪ステンレス営業部営業二課は、運搬船や建築物、石油・ガス・化学工場などで使われるステンレス配管資材を、商社やエンドユーザーへ販売する部署だ。食品工場などのプロダクトラインで使われる配管資材を扱うサニタリー部門とは異なり、他社製品やグループ会社から製品を仕入れて在庫し、オーダーに応じて納品するストック・アンド・デリバリー型のビジネスを行っている。高校卒業後から26年間勤めた前職の会社とは、仕入れ先や販売先など共通する要素が少なくない。

前職は大阪市内の産業機械の卸商社だった。村尾氏は京阪神地域の機械工具商を担当し、建築現場や工場などに納品される機器類の販売に従事していた。元来真面目な性格である。26年間、顧客や同僚、上司とのコミュニケーションを大事にしながらコツコツと信頼を積み重ねてきたという自負を持っている。

「自分に合う環境などそう簡単には見つからないと考えています。前職時代から、何があってもとにかく諦めずに継続することが一番だと考えてきました」

そんな村尾氏が、新たな成長ステージとして選んだのがトーステだった。登録していた人材紹介会社から紹介されたトーステの面接を受け、入社を即断した。

新規市場の開拓。大阪で下地を作り全国拠点に広めたい

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トーステ入社の決め手は、村尾氏の面接を担当した役員と部長の人柄だった。上から物を言うわけでもなく、相手を威圧する雰囲気もない。腰の低さと丁寧な対応には、これまでに体験した上司と部下の関係性とは全く異質のものを感じた。しかも面会した2名ともに同じ印象を受けた。これから自分が勤める会社として、働きやすさと居心地のよさをイメージすることができた。

入社後、与えられたミッションは、既存顧客へのフォローに加え、前職時代の経験を生かした新規商材の販路開拓である。村尾氏が前職時代に販売していた産業機器類を、同社の商社部門で仕入れて販売する。一般ステンレス配管の営業部門では取り扱ってこなかった分野だが、エンドユーザーが共通することから、会社としては村尾氏の採用を機に参入する目算があった。

進め方は村尾氏に任された。同社の仕入れ先にも機器類を扱う会社はあるが、まずは扱い慣れた前職の製品からスタートした。目下、取り組んでいるのは在阪の営業拠点での下地作りだ。

「個人の動きだけではなく、同僚に同行してレクチャーすることもあります。成果を上げる営業担当者も出てきました。売れると喜んでくれる。それがひとつのやりがいにもなっています」

大阪ステンレス営業部全体で販売できるようになるためにナレッジの共有と仕組み作りを進め、次のステップで全国拠点に広める考えだ。

トーステの社風を象徴する営業アシスタントの働きぶり

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入社して特に強く感じたことは、営業事務を担う女性社員の働きぶりの良さだ。大阪ステンレス営業部には2017年4月現在、一課、二課、合わせて8名の女性社員が在籍する。役割は電話対応での受発注だが、単なるアシスタント業務の範囲には収まらない働きをする。営業担当者は一日中事務所を空けていることが多いが、担当営業が不在でも、顧客の用件のほとんどが内勤の営業事務だけで済んでしまう。その主体的な働きかたは、顧客からも好評を受けている。

「朝も自発的に早い時間に出社しています。営業事務の女性社員が真面目に丁寧に仕事をしているということは、社員教育がしっかりされている証であり、トーステの強みであると感じました」

同じ部署の上司や仲間の人柄も素晴らしいと感じる。入社して1年以上たった現在まで、面接で役員から受けた印象が裏切られたことはない。

機器類の販売を軌道に乗せた後の長期的なビジョンは、事業拡大に貢献できるよう新しい販売体制を築くことだ。前職での経験を生かして、事業の幅を広げていくことが自らに課されたミッションだと感じる。与えられた役割で成果を出し、採用してもらったことへの恩返しをしたい。村尾氏はそう思っている。

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トーステ株式会社
大阪ステンレス営業部 営業二課

村尾 純一

1971年8月、大阪市生まれ。高校卒業後、大阪市内の産業機械商社へ入社。機械工具商を顧客とする産業機器類の営業に従事。2015年10月、退職。2016年1月、トーステ株式会社に入社。大阪ステンレス営業部営業二課に配属され、大阪・兵庫エリアで、ステンレス配管資材の既存ルートの営業と産業機器類の新規開拓に携わる。

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