新潟県庁へUターン転職した男が、東京に戻ったわけ
フラー株式会社 高橋 智計さん
(株)くらしさ 長谷川 浩史&梨紗
2019/12/09 (月) - 08:00

東京で就職した後、生まれ育った新潟に戻り県庁で勤務。そしてまた上京し、転職した先はITベンチャーという、稀有なキャリアを歩んでいる人がいる。高橋智計(ともかず)さん(37歳)。「自分がおもしろいと思うことをやっていくだけ。そこに地方も東京も、役所も民間も関係ない」と言い切る高橋さんの生き方は実にアグレッシブで軽快だ。東京に住む今も、気持ちの拠り所は常に故郷、新潟。東京と新潟を行き来する高橋さんの生き方から学ぶ、これからの時代を生き抜くヒントとは?

文学少年が目指した先は出版社だったが…

新潟県胎内市出身。1歳の頃から好んで本を読んでいたというほど、生まれながらにして本好きだったと振り返る高橋さん。

「もちろん幼少期は絵本ですけどね。小学校に上がる頃には小説を読んでいて、文化祭では自分の小説を書いて配るほどの文学少年でした。登下校中、本を読みながら田んぼに落ちたこともあるほど(笑)見た目からは想像がつかないとよく言われますけどね…」

確かに一見強面で、体格の良さからもスポーツ少年だったように思えるが、意外にもスポーツには疎かったという。高校に上がる頃にはファッションに興味が湧いていた高橋さんは、東京に出たいという一心で、本好きで国語・英語に長けていたことから早稲田大学の第一文学部文芸専修へ進学した。

「当時はとにかく新潟を出たいという一心で、俗にいう地方から東京を目指す人と同じような考えだったんです。東京じゃないと“ホンモノ”には触れられないって。実際にはそんなことなかったんですが(笑)」

東京では、学校の勉強そっちのけでファッションショーの主催側に回ったり、クラブで夜明けまで遊んだりと大学生活を謳歌した高橋さんでしたが、それでも文学熱は冷めず、就職活動では出版系を志望。ご縁あって(株)小学館プロダクション(現(株)小学館集英社プロダクション)から内定を獲得する。

「実は、エントリーした時は小学館の編集プロダクションで、バリバリ現場で本を作る会社だと思っていたのですが、実際に入ってみると小学館の“出版以外”の事業を手がける会社だったんです(笑) ただ出版社からは軒並み落とされたんで、これも運命かなと思って」

配属された部署は、主に子供向けのおもちゃやゲームなどのイベント制作を手がける部署。中でも一番思い出に残っているのは、小学館が発行する子供向けコミック誌「コロコロコミック」のイベントを全国各地で開催する、「コロツアー」を担当したことだった。本をつくる仕事をしたいという想いからは少し方向性が異なっていたが、その人懐っこい性格から徐々に仕事が体に馴染んでいったという。

「紙相手よりも人相手の方が、自分には向いているのかなって。だんだんとそういう自分の特性が分かっていったんです。」

イベントにはシナリオも必要で、学んできた小説のスキルはシナリオライティングに活きた。

「本の場合、作家の創作力と編集の読み手を考えるマーケティング力が問われると思うのですが、発刊までには時間がかかるし、作家へのフィードバックは間接的ですよね。それがイベントの場合、アイディアと予算さえ決まれば、それを現場で実行に移して直に反応が返ってくる。そのPDCAのサイクルを自分の責任の範疇で回せて、なおかつ早い。やりがいありましたよね。」

そして気付けば10年間、東京で仕事に没頭していた。

転機は3.11。新潟はどうなの?と自問自答

そんな高橋さんに価値観の転機が訪れたのは、東日本大震災のときだった。イベントで訪れたことのあった宮城県名取市も甚大な被害を受け、実際に現地の様子を見に行き、子どもたちもショックを受けていることを聞いた。居ても立っても居られなくなった高橋さんは、子供たちを元気づけるイベントを開催できないかとコロコロコミックの編集長をはじめ、社内外に掛け合った。全国誌であるコロコロコミックで、なぜ名取市だけ?と言われることも危惧したが、自身が現地の声を聞けたのはたまたま名取市だけ、そのご縁を大事にしたかったという。他の地域は翌年度以降で回ることを前提に、まずは繋がりのあった先にできることをと計画し実行に移した。

「名取市の仮設住宅や学校でイベントを開催していったのですが、子供たちも喜んでくれましてね。実は、入社当時は子供が苦手で、本当にやっていけるのかと思っていたのですが、目の前で子供たちの素直な反応を見ていると、徐々にこちらも楽しくなっていくんですよね。中でもこのイベントは、子供たち一人ひとりの顔が今でも思い浮かぶくらい、心の底から喜んでもらえていると確信した瞬間でした。その時、現地の施設とのコーディネートやアテンドなどをしてくれたのが、名取市役所の女性職員だったんです。その職員の方の働きぶりがかっこ良くって」

実は高橋さんの母親も、地元の市役所に勤める公務員だった。その名取市の女性職員の働きぶりが、母親の姿とシンクロしたのかもしれない。父も祖父も県庁職員だったというお家柄、公務員という職業は身近な存在だった。そんな折、新潟県がUIターン型の職員を募集することを耳にする。

「それまでツアーで44都道府県を回ったのですが、夜の街に飲みに行くとそれぞれに特徴のある文化が残っているのに、若い人たちが集まるのはどこも同じようなテナントが入る商業施設。これでは地方の特色が消えてしまうのではないかと心配になりました。じゃあ新潟はどうなの?って、上京する時には眼中になかった故郷新潟のことが頭をよぎったんです。地方すべてをどうにかはできないけど、少なくとも生まれ育った新潟だけは何かトライしてみてもいいんじゃないか、いや、僕がトライしなきゃいけないんじゃないかって思ったんです」

実はその頃、結婚して東京に3LDKのマンションを購入するも、1年で別居、離婚を目前に控えていたほどプライベート面でスレていたという高橋さん。その時のモヤモヤをすべて公務員試験に向けての勉強にぶつけ、約1ヶ月間で17教科を猛勉強したという。結果、見事、新潟県庁採用試験を突破する。

「昔から怒りを力に発揮できる体質のようでして、今度は東京を離れたいという一心でした(笑)」

こうして14年ぶりに帰郷し、父母や祖父と同じ公務員という道で、故郷のために働くこととなった。

県庁で模索した「新潟のつかいかた」

県庁でのはじめの配属先は「産業立地課」。県内外の企業に対して、新潟県への投資を促すために活動する部署だった。民間企業での経験が活かせると考え、意気揚々と仕事に取り組んだ高橋さんだったが、そこは役所という全くの異業種。民間企業のニーズを最優先しづらい文化や仕組みがあり、もがき苦しんだ。そんな中でも誘致に関われた企業のひとつが、後々のキャリアチェンジ先になるとはこの時は夢にも思わず…。

新潟県庁庁舎

ただ、実は面接時に高橋さんが県庁で希望していた部署は「広報広聴課」だった。一度、離れて感じていた新潟の印象は、プロモーション下手ということ。日本海の海の幸や日本酒など多種多様な食材や、それらを支える海、山、川など豊かな自然にも恵まれ米以外にもたくさんの魅力があるのに、あまり県外には知れ渡っていない現状を打破したい。自身の民間企業でのプロモーションの経験を生かせば、県外向けの広報にはまだまだ伸び代があると考えていた。

産業立地課では民間での自分のキャリアが活かしきれず、一時は東京に戻ることも考えていた高橋さんだったが、異動希望を提出し、念願叶って2年後には広報広聴課に晴れて異動になった。担当業務の一つが、首都圏向けの情報発信業務だった。

しかし、そこで直面したのは、今までのやり方で首都圏に情報が届いているのかどうかを知るすべがないという課題だった。これだけネットやSNSが普及しているなか、雑誌やラジオといった媒体が主体で、一方的かつ定量的な効果測定が難しく、それを変えるには相当な客観性と説得力が必要だと痛感した。

そこで高橋さんは、東京で10年培ってきたメディアの経験と、2年間で叩き込まれた役所の流儀を融合させ、庁内外のキーマンをうまく巻き込んで既存事業を統合、新事業のための予算を確保した。異動から1年後の2018年、ついにネットとSNSを駆使して新潟を発信していくオウンドメディア「新潟のつかいかた」を立ち上げる。

ニュースサイトなどとも連携し、新潟のモノ・コト・ヒトを発信していく仕組みを、行政が取り組むということ自体が珍しく、全国から注目を集めた。そして知られざる新潟の魅力を県内外に発信していくことに尽力していった。

「行政というのは、公平性を重んじなくてはならなかったり、前例にないことを取り組むことが難しかったり、本当に大変でしたが、なんとか一つの形をつくれたことは良かったと思っています。ただ、同時に県庁という巨大な組織の中で働くことの限界も痛感しましたので、今一度、民間の立場で自由に動き回りたくなったんです」

新潟のつかいかたの取材を通じて、県内で活き活きと活動する人たちと知り合えたことで、新潟に対する想いは強まる一方だった。だがその頃、敬愛していた母親が他界しており、新潟に留まる理由の一つがなくなってしまっていた。なにも県内で活動することもなく、県内外を行き来することでもっと新潟のために果たせる役割が広がるのではないか。せっかくの公務員という安定した立場を捨ててしまうのか、という概念は、高橋さんにはなかった。

そこで思い立った先が、産業立地課時代に誘致に関わった企業の一つだった。

必要なのはブレない軸と体幹。あとはおもしろいことを追求していくのみ

フラー株式会社は、新潟出身の創業者2人が立ち上げたアプリ関連ビジネスのITベンチャー企業。千葉県柏市に本社を置きながら、出身地新潟のためにITの力を使って何かできないかと、2017年に新潟支社を開設。その時に、県庁側で誘致のきっかけを作ったが高橋さんだった。今では、日本三大花火大会の一つ「長岡まつり大花火大会」の公式アプリを手掛け、ビッグデータを元に渋滞や駐車場情報などもリアルタイムで発信している。

「まさかあの時のご縁が今につながるとは思ってもいませんでしたが、今一度、企業人に戻るならいっそベンチャーくらいの組織の方が、変革していく過程から関われて、自分の意見も反映されそうというのもありました。そして、何より新潟とつながっているというのも大きかったです。意外とそういう企業って多いんですよね」

実際、名だたる企業でも、本社を地方に置いているケースも多い。新潟でいえば、お菓子メーカーのブルボンの本社は新潟県柏崎市だし、世界的アウトドアブランドのスノーピークも三条市に本社を置くトップメーカーだ。その県に想いがある人にとっては、なにかしらその県と接点のある企業で働くことで、結果としてその県に還元していくことができる。

「知り合いが”グラウンディング”と言う言葉を教えてくれたのですが、どこかの地に足を付けて生きていくことで、心の拠りどころができるんですよね。上京前は新潟vs東京、上京後は東京vs地方と考えていましたが、新潟県庁に勤めてからは新潟が主軸になりました。県庁を退職するにあたり、溜まっていた年次休暇を使ってバイクで日本一周したのですが、改めて僕の軸は新潟にあると確信できました。昔は新潟出身というのがコンプレックスだったりもしましたが、今はそれを自分の誇れる場所にしていきたいです」

新潟市内から日本海に沈む夕陽を望む

今は民間企業のスピード感とビジネス感覚を取り戻すべくリハビリ中と話す高橋さんだが、まったくの異業種に飛び込んでみるのも、最初はしんどいけれども、結果的に自分の血となり肉となっていくことを実感しているという。

「筋肉に例えると、スポーツやポジションによって必要な筋肉は違いますが、結果的には体幹が鍛えられていくことに近いです。大手→公務員→ベンチャー、競技は違うけど、体幹は鍛えられます。ブレない体幹と地に足がついていれば、どこでも生きていけます。僕はそのためにムエタイで実際の体幹も鍛えまくっています(笑)」

小説好きだった学生時代の経験を、就職後イベントでのシナリオライティングに活かし、企業でのプロモーションスキルを、県庁での広報活動に活かしていった高橋さんのコメントには説得力がある。そうした文脈から、「一度、電車を乗り間違えてみること」をオススメするという。

「みんな正しい電車に乗ろうとしすぎなんです。乗り間違えてみると、まったく違う景色が見られておもしろいですよ。え?間違えるなんてありえなくない?という方、ご安心ください、僕はもう3回くらい乗り間違えてるし、行き先もまだ分かりません(笑)でも、楽しく生きていますよ」

地域に軸足は置きながらも、活動のフィールドは地域に留まらず。官民にこだわらず、心が赴くがままにおもしろいと思うことに突き進んでいく。先の見えない未来だからこそ、そう生きた方が楽しいに決まっているということを、高橋さんの生き方からは感じずにいられない。

高橋 智計(たかはし ともかず)さん

1982年、新潟県胎内市に生まれる。幼少期からの文学好きが高じて、大学も小説を書くことが学べる早稲田大学第一文学部文芸専修を卒業。本をつくる会社と勘違いして(株)小学館プロダクションへ就職し10年間勤務。東日本大震災を機に、地元新潟に貢献したいと公務員試験を突破し、新潟県庁へUターン転職。4年務めた後、新潟出身の創業者が立ち上げたベンチャーへ転職し東京へリターン。新潟と東京を行き来しながら、おもしろいことを模索している。

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