台湾における再生事業最前線2019/その3:台湾中部山間部の大人気観光地「薫衣草森林」の挑戦
木下 斉
2019/12/06 (金) - 08:00

台湾は「島」というイメージがありますが、その中部は切り立った山岳地帯が多数存在しています。もともとそれら山岳地帯には多数の少数民族が生活をしていて、多様な文化を形成していたと言われています。台湾では改めてそれら地域文化を大切にしようとする取り組みが活発になっています。

そのような中、台湾中部の山間の新社というエリアに位置する「薫衣草森林」は18年続くラベンダーをコンセプトにしたテーマパークと民間経営の公園の間といった感じの場所。長く続いているにも関わらず、今でも年間18万人ほどの人が訪れる人気のスポットとなっています。

不利な立地でのないこと尽くしの挑戦、そして被災

台中市から山が連なる中部へと向かううちに、「この先に本当にあるのか」と心配になる道を乗り越えて薫衣草森林に到着します。秘境感漂う立地です。(https://goo.gl/maps/v56z4GJohCDH6QcV6

当初、かつて北海道の富良野にいったときにファーム富田のラベンダー畑に感動した女性と、自分で山の上でカフェをやりたいとかんがえていた女性とが出会い始めようとしたのがきっかけ。もともと不動産業などを行い、衣草森林のCEOを務める王さんがその二人を知って引き合わせたこともあり、当初は事業計画の相談などに乗っていたといいます。その熱意に押されて会社経営責任を負い、親族の山だった場所を活用して開業を目指します。

とはいえ、その候補地には当時電波も通じておらず、地図にも出てこない場所。さらに資金もない。お金がないから最初は窓をつけないままに飲食店をオープンしたという逸話まであるほどのないことづくし。さらに開業準備をしていた1999年には、「921大地震」に襲われ、この地域も被災してしまいます。

それでも、会社を辞めてでもラベンダーガーデンとカフェをやりたいという二人の情熱は強いもので、諦めずに2001年の開業を迎えました。

開業初日の売上は3000元。2000元は珍しいということできてくれた地元の人、そしてもう1000元は道に迷ってたまたまきたお客さんだったといいます。それでも二人はお客さんがきてくれたことに大変感激したそうです。

ブレイクのきっかけは一通のメール

開業後、一連のエピソードを書き綴ったメールを創業者の二人が友人に送信したことが、思わぬ反響を呼ぶきっかけとなります。

二人からのメールを受信した友人がそのエピソードに感動し、自分の友だちにも転送して、ぜひこのラベンダー畑とカフェに行くように拡散したのです。するとさらにその友達から友達へと、ねずみ算的に情報が拡がっていきます。そのうち、実際に行った方が現地の写真も加えるなどどんどん加工され、薫衣草森林の魅力が伝わるメールになりました。今のようにSNSが流行する以前ですが、人々の相互の繋がりによって一気に拡散し、お客さんが殺到するようになります。

この話は当時の台湾では大変な話題になり、2002年1月には中華民国総統が近くの視察に来た際に、テレビ局が「山奥で起きた奇跡」として大々的に取り上げ、さらに多くの人が知るようになります。2月の旧正月には信じられないほどの人が押し寄せ、一気に人気スポットに上り詰めていったのです。

ラベンダー商品の開発、宿泊施設の経営などにも進出し、今では台湾各地でも同種の事業を展開する企業グループへと成長しています。2名で始まった事業は今や400名を超えるスタッフを擁するまでに成長。それでも各地域での地元採用を可能な限り徹底し、家族ぐるみで働いたり、結婚する人も出るなど、非常に地元コミュニティに直結した事業展開を意識しています。さらに、近年は北海道にも宿をオープンし、その展開の幅はますます広がり続けています。

取り組みは波及し、収益で地域小学校支援なども行う

自社の成長だけでなく、新社あたりにはカフェやレストランが増加し、それらの仲間と観光協会を立ち上げるなど民間主導で稼ぎ、さらに地域のために投資する取り組みを続けています。また、ラベンダーを植え替えるのに協賛システムを導入し、地元の小学生たちと毎年植え替えを行っているそうです。その協賛金は基本的に地元小学校へ寄付し、教育支援も行っています。台湾では過疎地域の小学校などを残す上で、一般的な学校教育ではなく、特化型学校教育を行うことを条件に財源確保を行っているそうです。演劇、絵画などそれぞれ特徴をもった小学校として存続することで、台湾全土の中から選んで移住する方が出てくるそうです。これは日本の地方教育にも言えることでしょう。

とはいえそのような先進的な取り組みがなぜこの地域でできたのか。この地域は歴史を遡ればもともと山岳地域ということで原住民の方がおり、その後には中国本土から客家の方々が移住し、さらにその後には陸軍基地の一部が置かれその関係者もいたり、周辺の空港開発で追い出された方々が移住してきたりと、常に外からの流入が激しい地域ということで、外へのオープネスを確保するのが常に当たり前だったことが、今の発展の基盤になっているとも言えるでしょう。

お金がなくても知恵を出し、独自の事業を積み上げていくことが地域変革につながっていく。これは日本も台湾も同じです。そしてこの取組みが素晴らしいということで、薫衣草森林のような農業観光事業を促進する補助金制度などができて、台湾各地に水平展開するという事業も過去に行われたそうですが、それらの多くは失敗に終わったそうです。

薫衣草森林の創業から発展、そして地域変革。さらに複数地域を連携させて事業を育てているプロセスは、日本の各地の過疎地域にも学べる部分が多いと言えるでしょう。これから1-2月にラベンダーが見頃ということで、ぜひ地域再生などに関わる方で台湾まで行く機会のある方は、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

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