全国14の地方中核都市に進出。 佐賀県発のゲストハウス・ウエディング
GLOCAL MISSION Times 編集部
2017/08/14 (月) - 13:00

佐賀県伊万里市からスタート。
ゲストハウス・ウエディング立ち上げまで

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福岡から車で約2時間半。「伊万里焼」や「伊万里牛」などの名産品がある人口6万人弱の佐賀県伊万里市から、佐賀県では「佐賀銀行」以来27年ぶり、伊万里市の企業では初の株式上場を果たしたのがアイ・ケイ・ケイだ。

「伊万里グランドホテル」の運営と婚礼事業を引き継ぐことになった金子和斗志代表取締役社長が、1995年に会社を設立したのが事業の始まりである。地元の民家を一軒ずつ訪問して、地元の人々とのコミュニケーションを深め新規開拓する、社内では「ドブ板営業」と呼ばれる営業スタイル。足で情報を稼ぎ、新郎新婦の両親や媒酌人との関係を築いて売り上げにつなげた。

団塊ジュニア世代が結婚適齢期に入る1990年代、少しずつ時代に変化が表れ始める。挙式や披露宴件数が緩やかに減少し、「晩婚化」や「少子化」といった言葉が生まれた。一方で、業界にとって明るい兆しもあった。平均初婚年齢が上がり、「招待客へのもてなしを重視したい」「自分らしい結婚式を」と考える人が増えていったのだ。

その動向にいち早く着目し、当時九州には存在しなかったゲストハウス型ウエディング施設の展開を狙う。選んだ出店地は、本社所在地と同じ佐賀県にあり、九州各県を結ぶ交通の要衝となっている鳥栖市だった。

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アイ・ケイ・ケイ株式会社

九州を中心に、全国14の地方都市でゲストハウス型のウエディング施設を運営。挙式や披露宴に関する企画や運営のほか、葬儀事業や介護事業も手がけている。

住所
(本店)〒848-0041 佐賀県伊万里市新天町722-5
(福岡本部)〒811-2245 福岡県糟屋郡志免町片峰3-6-5
設立
1995年11月1日
従業員数
746名(パート含む)
資本金
3億5,064万3,000円(2015年10月31日現在)

1995年11月

代表取締役社長である金子氏とその親族が所有する株式会社アイ・ケイ・ケイ不動産(現 株式会社アイ・エス)から結婚式場とホテルの運営を引き継ぎ、アイ・ケイ・ケイ株式会社を設立

2000年09月

佐賀県鳥栖市に「ウエディング&パーティーハウス ベルアミー(現・ララシャンスベルアミー)」(鳥栖支店)をオープンし、ゲストハウス・ウエディング形式の挙式・披露宴サービスを開始

2002年10月

福岡県福岡市に「ウエディング&パーティーハウス 博多の森(現・ララシャンス博多の森)」(福岡支店)をオープン

2005年10月

富山県富山市に「キャナルサイドララシャンス」(富山支店)をオープン

2006年04月

福岡県糟屋郡志免町に福岡本部を設置

2009年08月

「ウエディング&パーティーハウス 博多の森(現・ララシャンス博多の森)」(福岡支店)にて、食品安全マネジメントシステムの国際規格であるISO22000の認証を取得

2012年07月

大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場

2012年01月

東京証券取引所市場第2部に株式を上場

2012年03月

大阪証券取引所JASDAQ(スタンダード)における株式の上場を廃止

2013年01月

東京証券取引所市場第1部銘柄に指定

ゲストハウス・ウエディングを九州から全国へ。
地方進出に成功し続ける先駆者

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2000年以前、結婚式といえばホテルか神社が業界の主流だった。当時は、「ゼクシィ」などのブライダル情報誌も、インターネットもあまり浸透していない時代。結婚が決まると、親や親族、互助会を通して会場を探すのが一般的だった。九州初のハウスウエディング会場「ララシャンス ベルアミー」を佐賀県鳥栖市に出店したのは2000年9月だ。ゲストハウス・ウエディング形式の挙式・披露宴サービスは国内でも珍しく、新しい結婚式の形態が話題となった。

大きな転機となったのは、2002年、福岡市に「ララシャンス 博多の森」(福岡支店)をオープンしたことだ。約4,000坪の敷地内には、2つの独立型チャペルと3つのバンケットが点在する。自然豊かな環境を生かし、会場の大きな窓からは自然光が差し込み、四季折々に色づくたくさんの木々が見える、これまでになかったロケーションを求めて、九州中から見学の問い合わせが殺到した。ブライダル専門誌「ゼクシィ」から最高点の評価を受けたこともそのブームを後押しした。

また同支店では、2009年にはホテル業界・婚礼業界では初めて、食品安全マネジメントシステムの国際規格である「ISO22000」を取得して、飲食面での安全性・信頼性を確立した。さらに「食」で他と差別化するため、約200名の調理部に、料理の世界大会で銀メダルを受賞したシェフを複数名在籍させる。世界一に輝いたパティシエの辻口博啓氏とコラボレーションしたスイーツを提供して話題性を作る、新しい試みを始めたのもこの時期だった。

成功要因はニッチ開拓戦略と「人」を育てる「可能思考」

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2015年10月期の第2四半期累計(2014年11月~2015年4月)の売上高は732.2億円、営業利益は40.5億円と、東日本大震災の影響を受けた2011年10月期をのぞいて成長を続けているアイ・ケイ・ケイ。その要因は何なのか。

ひとつは、人口30万人以上の地方都市に焦点を当てた出店戦略だ。地方都市は、都市圏に比べて競合が少ないことに加え、伊万里で培ってきた小規模商圏での営業ノウハウが生きやすい。ランニングコストが低く、豊かな自然環境があることも出店条件だ。

年間1,000軒以上集まる全国の候補地から、競合状況を勘案して都市を絞り込む。交通アクセスや商圏動向、競合他社の動向などの調査を重ね、設備投資内容と予算に見合うかどうかを評価する。さらに、徹底的な市場調査を重ねて1~3軒までに物件を厳選する。もちろん、データや資料だけが判断材料ではない。

成功したもうひとつの要因は「人」にある。「経営理念をしっかりと全従業員に浸透させること。これが他社との大きな違いです」と、人財育成に携わる田中慶彦営業部長は語った。理念を伝える代表的な研修のひとつに、新入社員全員が入社直後に参加する「価値観研修」がある。グループワークを通して、思考のクセや行動特性を見つめ直すきっかけを作る。できない理由ではなくできることに目を向ける「可能思考」を全員で共有することが狙いだ。同じスタートラインに立つ仲間と考え方の標準をそろえることで、入社後の目標やビジョンがより明確になる。

優秀な人財とともに、さらなる国内進出へ。
初の海外出店はインドネシア

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「人」を大切にする社風は、評価制度にも反映されている。年2回の経営計画発表会で各部署のMVPを表彰する「MVP制度」や活躍した人物を評価する「スター制度」は、スタッフが楽しみにしているイベントのひとつであり、モチベーションアップにもつながっている。休みの日も一緒に趣味の時間を楽しむほど、社員同士の距離は近い。誕生日はみんなでサプライズを仕掛ける。年に一度は社員の家族も招待してファミリーパーティーを開催する。社内のチームワークの良さはさまざまな場面での積み重ねから生まれている。

また、インドネシアへの海外事業展開も順調に進んでいる。アイ・ケイ・ケイが提供するサービスは、結婚式専門の会場とプロの運営スタッフたち。会場、ケータリング、デコレーション、司会やサービスのスタッフ、プランナー。結婚式に必要なものは、インドネシアでは現地の新郎新婦や家族がそれぞれ個別に手配しているが、これらのすべてのサービスをワンストップ化して、ミドルアッパークラスを対象に販売をスタートする。

海外の市場を開拓するにあたっても、要となったのはやはりマーケティングだった。伊万里に始まり、九州や全国の地方都市の商圏で成功してきたノウハウは、海外においても十分通用するのかという試金石にもなった。

創業者の熱意に胸を打たれて入社。
同社の礎を築いた生え抜きのエース

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菊池旭貢取締役、営業企画部長がアイ・ケイ・ケイと出合ったのは、地元の佐賀で開催されていた新卒採用の合同企業説明会だった。東京のIT企業に就職が内定し、内定者見学会にも参加したが、自分がその会社で働く姿がうまく思い描けない。内定を辞退して就職活動をゼロから再開した頃、同社の合同企業説明会に参加した。当時の同社は佐賀県鳥栖市の新規出店準備中。「オープニングスタッフ募集」というキャッチコピーが魅力的だった。

驚いたのはその後だった。「形式的なメールやはがきで他の企業からお礼が届くなか、アイ・ケイ・ケイだけは担当者から直筆の手紙が届いたんです。他の企業とは違うな、と意識しました」

後日、入社試験のために会社に足を運ぶと、創業者の金子氏の魅力に圧倒された。「雰囲気や話し方、すべてに引かれました。一言で言うと情熱家。50名以上いた学生の参加者の名前を、何も見ずに一人一人呼んでくださったんです。この人の下で働きたいと思いました」

学生時代は、先輩の紹介で始めた飲食店でアルバイトを3年間続けた。「自分のサービスで相手に喜んでもらえることがうれしかった」と菊池氏。オープニングスタッフとしてゼロから式場を立ち上げる楽しみと期待を胸に入社を決意した。

真っ白な地図から顧客を開拓。
新規出店準備に邁進した下積み時代

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菊池氏が入社したのは、アイ・ケイ・ケイの前身である「株式会社アイ・ケイ・ケイ不動産」時代だ。アイ・ケイ・ケイ不動産が運営していた施設は「伊万里グランドホテル」と総合結婚式場「伊万里迎賓館」の2つ。入社して半年間、婚礼関係の受け付け業務、事務、ホテルのフロント業務、電話、ビアガーデン、会場説明、サービス、営業。ホテル運営に関するすべてのOJT研修を経験した。

菊池氏の世代は、会社が新卒採用に大きくシフトした最初の年だった。新人研修のカリキュラムや指導マニュアルはなかった。先輩の運転する車に乗せられて、知らない場所に一人残される。朝から日が暮れるまで、地図だけを頼りに近隣の民家を一軒ずつ訪問して、結婚を控える若者の情報を集めた。真っ白だった地図はメモでいっぱいになった。

オープニングスタッフとして入社したはずなのに、新規出店の情報は一向に明かされない。それでもひたすら目の前の仕事に打ち込んだ。「伊万里でできないことは、鳥栖でもできない。今やれることをひとつでも多く学ぼう」という金子氏の言葉を信じていた。

2000年4月、鳥栖市の開業準備室に異動し、9月に「ウエディング&パーティーハウス ベルアミー(現・ララシャンスベルアミー)」(鳥栖支店)をオープン。九州で初めてのゲストハウス型ウエディング会場立ち上げの主要メンバーとして、前人未到の営業成績を上げた。同社のビジネスモデルの礎を築いた菊池氏の代は「華の11期」と呼ばれている。

初めての海外進出はインドネシア。
現地のニーズに即したサービスを提供

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海外進出に向けて、アイ・ケイ・ケイでは2012年から海外スタッフの採用をスタートした。プロジェクトの責任者である菊池氏が数ある候補地の中から選んだのはインドネシアだ。「人口は日本の約2倍にあたる約2億6,000万人。国の平均年齢は28~29歳。経済的には発展途上で、親日家が多い。そしてもっとも魅力的だったのは、素晴らしい結婚文化が根付いていることでした」

インドネシアには、日本のような結婚式場がほとんどない。会場、料理、衣装、設営、司会者など、結婚式に必要なものはすべて新郎新婦の家族や親族が手配をする。大小を問わず必ず挙式をする習慣があり、式にかかる時間やお金を惜しまない。カップル1組で1,000人以上のゲストが集まったり、結婚式と披露宴に1,000万円以上を費やしたりすることもある。人口の数だけ挙式のチャンスがある恵まれた市場に目を向けた。

大変だったのは宗教と民族についてだった。人口の大多数はイスラム教徒で、その宗派は200以上に分かれている。民族衣装、メイク、豚肉を食べない食文化など戒律が違うように、宗派によって結婚式の形式も違うとわかり、徹底的に市場調査を重ねた。現地スタッフとカップルのフリをして、何十件もの結婚式に紛れ込んだという。「調査にかかったのは2年間、膨大な時間ですよね。それでも自分たちの目で現場を見て、勝てる戦略を見つけることが大切だと考えています。これがアイ・ケイ・ケイを支える営業マインドなんですよ」

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アイ・ケイ・ケイ株式会社 取締役、営業企画部長

菊池 旭貢

1999年3月、崇城大学(旧・熊本工業大学)構造工学部卒業。同年4月、アイ・ケイ・ケイの前身となるアイ・ケイ・ケイ不動産(現アイ・エス)に総合職として入社。2000年4月、鳥栖市の開業準備室に参画。同年9月「ウエディング&パーティーハウス ベルアミー(現・ララシャンスベルアミー)」(鳥栖支店)がオープン。圧倒的な営業成績が評価され、支配人代理まで務めた。2005年5月、同社初の九州外への出店で、支配人として富山へ転勤。2008年に最年少営業部長、最年少取締役に、2011年4月には兼任で子会社社長に就任して本部へ。

生まれ育った町・伊万里で
偶然が呼び寄せた会社との出会い

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入社2年目の営業企画部人事課・山口ちひろ氏は佐賀県伊万里市出身。学生時代は放送業界で働くことに憧れて、東京の大学でテレビなどのメディアについて専門的に学びテレビ局でのアルバイトに熱中していた。夢はテレビ番組のプロデューサーだった。

アイ・ケイ・ケイに興味を持ったきっかけは、地元の佐賀に帰省した際に偶然参加した企業説明会だった。「金子の言葉と熱意に感動しました。さらに調べてみると、私が地元へ帰ると必ず足を運ぶエリアの一角に本社があるとのこと。縁に導かれたような思いでした」

同社の採用試験には筆記試験がなく、面接のみ。質問は高校や大学でのことなど。山口氏も、それまでの経験とそのときどう感じたかを徹底的に質問されたという。

「中学までソフトボールを続けていましたが、福岡の高校に進学してハンドボールに転向しました。実家を出て祖母と二人暮らし。慣れない環境のなか、練習も勉強も周りに追いつかず八方塞がりだったときに、顧問の先生からの『逆転する日は必ず来る』という一言に、稲妻に打たれたような衝撃を受けました」

以来、周りがする以上の努力をしようと自分に誓い、夢中で文武両道を極めたという。苦難に直面したとき、どのように乗り越えるかは人によってさまざまだ。学歴や経歴よりも、考え方や物事に対する姿勢を重視する同社らしい入社試験である。「面接官の方々が、どの企業よりも私の話を真剣に聞いてくださいました。話してみるとどなたもパワフルで魅力的。面接をしてくださった全員の方といっしょに働きたいと思いました」

目の前にいる人と感動を共有したい。
自分のルーツ・伊万里へ恩返しを

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就職希望地は東京で、放送関係の仕事を目指していた山口氏。佐賀へのUターン、そのうえまったく異なる婚礼業界に飛び込んだ理由は、就職活動のときに書きつづった「自己分析ノート」にあった。「日ごろ考えたどんな些細なことも、すべてノートに書き出していました。すると、メディアを通して顔の見えない不特定多数の方に感動を届けるよりも、目の前にいる特定のお客様が喜ぶ姿を自分の目で見る仕事がしたいという価値観にたどり着くことができました」

幼い頃から都会への憧れが強く、テレビを見ては東京での生活に思いを募らせていた。コンビニエンスストアもない、バスも1日に数本。そんな伊万里の町に嫌気がさしていた。

「それでも、自分のルーツを振り返ってみたときに出てきたものは、伊万里の人の温かさでした。両親ともに仕事で毎日帰りが遅く、家に帰ったらランドセルを置いて近所のおじいちゃんの家に行って農作業をしたり、勉強をしたり。この方々のおかげで今の私がある。私にとって、この町の人々の愛情はかけがえのない財産だと気がつきました」

「感動」に対する思いと伊万里の人々との時間。この2つをつなげるのがアイ・ケイ・ケイだと腑に落ちたとき、「運命の会社だと思いました」。

1年目の挫折と、悩みから救ってくれた
人生を変える「担当上司」との出会い

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入社8カ月後、鳥栖支店に異動した頃、順調だった仕事の波が停滞し始めた。頑張っても一向に成果が出ない。焦って数字ばかりを追いかけ、ミスが続いていた。そんなときに救ってくれたのが、直属の上司にあたる豊永みなチーフリーダーだった。

同社の仕組みのひとつに、入社1年目の新人に先輩上司がつく「担当上司制度」がある。豊永氏は山口氏の2人目の「担当上司」だった。「今仕事を辞めたとして、あなたのこれまでの苦しみや悩みがなかったことになるなんて、努力する姿を誰よりも知っている私がいちばん悲しい、悔しい。涙を流しながらそう話してくださいました。自分のことのようにこんなに親身になって応援してくれる方がいる。そう気がつくと、世界が一気に変わりました」

2016年の夏、念願の本部人事課へ異動した。人事課は、400名以上いる営業部のなかでもたった5名。入社2年目で人事に携わるのは社内でも異例だ。

山口氏には2つのビジョンがある。ひとつは、全国の学生の就職活動をサポートすること。もうひとつは、現場に戻って支配人を経験し、現場の視点から会社の可能性を見つめることだ。

「私の入社のきっかけが『人』だったように、会社の魅力を発信するリーダーを探すのが私の仕事です。魅力的な上司に負けないように、私も人間力を磨いていきます」。笑顔で楽しそうに働く山口氏に憧れる学生たちが、近い将来きっと彼女に会いに来るに違いない。

 

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アイ・ケイ・ケイ株式会社 営業企画部 人事課

山口 ちひろ

2015年3月、早稲田大学文化構想学部卒業。同年4月、アイ・ケイ・ケイ入社後、福岡支店に配属。2015年12月、鳥栖支店に異動。集客営業から成約までを担当する「プロデューサー」としての経験を積んだ。2016年7月、採用や人財管理を統括する人事課へ。熱意のある学生との出会いを求めて、全国を飛び回る多忙な毎日を送っている。

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