建築業界の常識に真っ向対決。人を育て、伝統的日本建築の海外進出を目指す
GLOCAL MISSION Times 編集部
2017/04/27 (木) - 13:00

独自のビジネスモデルで、建築業界に旋風を巻き起こす

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伊豆半島の付け根に位置する静岡県沼津市。市の人口は約20万人。この地に本社を置く株式会社平成建設は、大手デベロッパーやハウスメーカーのトップ営業マンとして活躍してきた秋元久雄代表取締役社長が1989年に設立し、住宅や商業施設など建築業務全般を手掛ける。かつて日本の住宅は高度な技術をもった大工や職人が自ら木を選び、木材を刻んで組み立てる、オーダーメードであった。

しかし、現代では工期の短縮やコストダウンのために機械化が進み、あらかじめ工場でカットされた材料を現場で組み立てるだけとなり、職人に特別な技術が要求されることはなくなった。住宅は単なる「商品」になってしまったのだ。昔ながらの技術の軽視が招いたのは深刻な職人不足。

総務省の国勢調査によれば1995年に約76万人いた大工人口は、2010年では約40万人に減少している。そんな状況下だが平成建設は職人不足にはほど遠く、設立以来27年間、着実に成長を続けてきた。成長を支えたのは、秋元氏が業界の常識に反して貫いた独自のビジネスモデル。その仕組みは2011年にグッドデザイン賞を受賞する快挙も達成。他社の追随を許さず、建築業界に旋風を巻き起こす組織のあり方に迫る。

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株式会社平成建設

社内において多能な職務を遂行できる大工のスペシャリストを育成。営業、設計・デザイン、施工、メンテナンスまでを一貫して自社で「内製化」する独自システムで、賃貸マンション・注文住宅・商業施設・病院などさまざまな建物の建築事業全般を行う。ほかに不動産事業、コンサルティングなどを手掛ける。

住所
〒410-0022 静岡県沼津市大岡1540-1
設立
1989年2月8日
従業員数
575名 ※グループ合計、2016年4月現在
資本金
9,000万円

1989年02月

株式会社平成建設を設立

2001年08月

ISO9001 認証取得

2008年06月

住空館三島住宅展示場を開設

2011年10月

グッドデザイン賞受賞

2013年03月

経済産業省おもてなし経営企業選に選出

2013年10月

グッドデザイン賞受賞

2014年11月

世田谷支店を開設

2015年09月

グッドデザイン賞BEST100受賞

だれもまねしない、大工・職人を育てる会社

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「そんなことやらないほうがいい、と誰もが反対する。これこそ、チャンスだ!」大工や職人を育てる会社をつくりたい――独立を考えた秋元氏が建築業を営む知人たちに相談すると、一人として秋元氏の考えに賛同するものはいなかった。時は1980年代後半。建築業界では業務効率とコスト削減のために、下請けや孫請けにアウトソーシングすることがすでに一般化していた。

30年近くの時を経た現在も、その状況は変わらない。いわば業界の常識なのである。外注することで仕事の多くは細分化され、建築現場では工場であらかじめ生産・加工された部材を組み立てるだけとなり、大工や職人に高度な技術は必要とされなくなった。待遇も年々低下。やりがいを失った職人の多くが離職や廃業を余儀なくされていた。

秋元氏は大手デベロッパーやハウスメーカー、ゼネコンで17年間営業マンとして働き、成績は常にトップクラス。当然、現場もよく知る。「将来的には職人が不足し、日本の伝統建築をつくる技術が失われてしまう」。その手だてを今、講じなければ……。それは、祖父、父ともに大工の親方という家庭で育った秋元氏の天命だったのだろう。

「だれもまねをしないなら、一人勝ちできる」。皆の反対はかえって、それまでも人と同じことをしないで成功してきた秋元氏の確信に変わった。そして、世が平成に変わった1989年、大工・職人の育成に取り組む平成建設を旗揚げする。

建築プロセスを一貫して「内製化」した独自のビジネスモデル

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効率をあげるためといいながら、外注には多くの無駄も存在する。「例えば、一般的な建築現場でコンクリートを打設する際、枠を組むのは『型枠大工』、枠を取り外すのは『型枠解体工』という異なる職人が担当します。

職人の数だけ、人件費はあがります。また、型枠は丁寧に扱えば使いまわしできコスト削減になります。しかし、その場限りの現場で、型枠自体が自社の持ち物ではないとなれば、職人は再利用を考えることもなく雑に扱い、一度で廃棄されるのです」と本社営業部の長野剛貴次長。これらを踏まえ、平成建設が大工・職人の育成とともに取り組んできたのが、建築プロセスの「内製化」だ。

つまり、営業から設計、監督、施工、メンテナンスまでを自社で一貫して請け負う。建築に携わるチームが従業員同士なので綿密にコミュニケーションをとれる。なにより大切な顧客の要望にきめ細かく応えることが可能になる。一般的な建築現場にある無駄=間接経費は削減され、製品である建物の質を向上、均一化できるのだ。

とはいえ、道のりは平たんではなかった。秋元氏が声をかけ、設立から1年の間に集まった大工や職人、設計士などは総勢10名。10年目までは秋元氏が1人で営業活動を行った。やがて、業界とは真逆の発想である平成建設の独自性と可能性に多くの人が気づきはじめる。

はじめは静岡県内の高校や大学からの応募が中心だった採用も、次第に全国に拡大。しかも東大や京大をはじめとする大学や大学院を卒業した大工・職人志望者が殺到する。やりがいと誇りを求め、ものづくりの現場で働くことにあらためて価値を見いだす、新しい時代が到来していた。

静岡県沼津から、日本の大工・職人技を世界へ

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2016年4月現在、全従業員575名のうち、200名以上を大工・職人が占める。いつしか平成建設は「高学歴大工集団」と呼ばれるようになっていた。当初はピラミッド型だった従業員の年齢構成も、10代から60代まで各年代が同じ人数でそろう理想形に近づきつつある。

「少しだけ年次が上の従業員が下の者に教えることで技術伝達がスムーズに、うまくいくのです」と秋元氏。平成建設が育成するのは多能技能工。文字通り、複数の技術を持ち、現場では一人でいくつもの職域をこなす職人だ。

今日の建築業界では職人不足が深刻化し、工事が前に進まない事態さえ続出しているが、危機に直面する業界にありながら、平成建設は職人不足とはほど遠い。秋元氏の予見は的中したというわけだ。さらに「内製化」システムは、2011年にグッドデザイン賞を受賞。商品デザインだけではなく、組織形態が同賞を受賞した瞬間だった。

静岡に誕生した平成建設は、神奈川県厚木市、藤沢市、東京都日野市と支店を展開してきたが、2014年、東京都世田谷区に進出。高級住宅の新築、リフォーム、リノベーションの潜在需要の掘り起こしに挑む。

「東京23区の次は日本の伝統文化、数寄屋建築の優れた技が今なお生きる京都を狙います。京都で実績を積んだのち目指すはアメリカ。日本建築の素晴らしさを世界へ伝えたい」と秋元氏は語る。匠の技は独自路線を貫きながら、確実に海外進出をかなえるに違いない。

挫折の連続。それでも、前を向いて進め

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建築業界の常識に挑む秋元氏の祖父も父も大工の親方だ。職人の仕事は、幼いころから身近にあった。「建築現場にいくと、皆楽しんで仕事をしているんです。祖父も父も仕事に誇りをもっていました」。当時の親方は設計、現場監督をみずから行い、職人を指揮して建物をたて、弟子の養成をするオールマイティーな存在だった。

しかし、秋元少年は将来大工になろうとは思わなかった。高いところが苦手で、足場にあがるのは不安定で怖いし、自分には向いていない。そう思ったからだ。大工よりも関心をもったのはビジネスで、中学卒業後は県内の進学校に入学する。ところが秋元氏が置かれる状況は一変する。高校1年のときに、父の経営する工務店が倒産。大学進学をあきらめざるを得なくなったのだ。

「工務店が倒産して、絶対に継ぐことがなくなり、かえってよかったと思いました」。それは秋元氏の強がりでもなんでもない、本心だ。大学へ進む代わりに選んだのは自衛隊体育学校。秋元氏は身体が細かったのがコンプレックスで、高校1年のときに開催された東京オリンピックで金メダルを獲得した自衛官の三宅義信さんの活躍をテレビでみて、ひそかにトレーニングをはじめていたという。

この体育学校で出会ったのが、ウエイトリフティングの名指導者の神谷公夫さんと、金メダリストの三宅義信さんで、この二人の指導のもとオリンピック出場を目指した。ただ、全日本に出場はしたが、オリンピックの夢は実現しなかった。「夢は破れましたが、それほど素質がないことでも懸命にやれば、全日本クラスになれた。だったら、自分に素質があって好きな分野をとことん極めればトップクラスになれるだろう。そう自信がつきました」。いくつかの挫折も、秋元氏の大きな肥やしになっていた。

人と同じことはしない。独自の道を歩んで

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秋元氏は24歳から40歳の17年間、大手デベロッパーやハウスメーカー、そしてゼネコンで一貫して営業畑を歩んできた。しかも、いずれの会社でも営業成績は常にトップだ。その営業スタイルの基本は飛び込み営業だが、やみくもに回ることはしない。多くの営業が敬遠する「敷居の高い家」、つまり、経営者や開業医、大地主などの富裕層をターゲットに据えた飛び込みに徹したのだ。富裕層への営業は一筋縄ではいかないが、そこを切り崩すことができれば、売り上げを確実に増やすことができる。

「単純に商品パンフレットを持参するだけでは、忙しい方々には門前払いされるのがオチ。相手が望む情報を提供することに徹しました。そうするうちに、私には『〇〇さんの息子が開業を考えている』とか『あそこの家は建て替えを考えているらしい』など、地域の情報が自然と集まりました」

営業はスペシャルアドバイザーであれ。それが秋元氏の営業の奥義だ。また、みんながやっていることはやらず、だれもやらないことを仕掛けて大きなチャンスを手に入れる。長年の営業経験で培ってきたこの信念が、コストも時間もかかるゆえに他が追随しない大工・職人の育成と、建築プロセスの内製化という独自のビジネスモデルをもつ平成建設の誕生につながったといえるだろう。「既存の建築会社と同じことをしていては、新興の会社が大企業に太刀打ちできるはずもありません。人と同じことをしない、これが私の人生の鉄則です」

マルチな能力をもつ従業員とともに、日本の建築を世界に問う

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設立から27年が経過し、平成建設では多くの大工・職人が育ち、若手を指導する立場のものもでてきた。本社の隣には木材の加工場があり、ノコギリやカンナなどの大工道具をつかって作業が行われている。墨付けし、木を刻み、加工した材料を現場に運んで日本の工法で組み立てる木造の家。在来工法以外でも、平成建設の従業員はさまざまな建築に対応ができる。一人で複数の仕事をこなす多能技能工であるからだ。

大工だけでなく、営業、設計、システムエンジニア、経理というように、社内でのプロフェッショナル育成に秋元氏は余念がなかった。「営業しかわかりませんという従業員はうちにはいません。建築全般がわかってはじめて営業ができると考えています。幅広い分野の知識と経験があってこそプロでしょう」。また、すべての仕事は営業である、と秋元氏は断言する。

従業員の査定は上司だけに頼らず、十数名の同部署・関連部署の人間が互いを評価する「360度評価」とチーフリーダー投票制度によって、偏りのない人事考課を行っている。従業員の意欲と能力を最大限に引き出し、地域・社会との関わりを大切にしながら顧客に高付加価値・差別化サービスを提供する経営は、2013年の経済産業省「おもてなし経営企業選」にも選ばれた。

中途採用の従業員を含め、平成建設への入社を機に日本の伝統文化の魅力を再認識し、文化継承の一翼を担える仕事に従業員は誇りをもっている。「そして当社にはネーティブスピーカーのように英語をあやつる人材も少なくありません」。日本建築の素晴らしさを世界に問う、機は熟した。

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株式会社平成建設 代表取締役社長

秋元 久雄

1948年静岡県伊豆市修善寺生まれ。高校卒業後、自衛隊体育学校入校、ウエイトリフティングの選手としてオリンピックを目指す。ゼネコン、ハウスメーカーなどの営業職を経て、1989年、静岡県沼津市に株式会社平成建設を設立。大卒・大学院卒の大工や職人を正社員として採用し自社で育て、建築のほぼすべての工程を内製化する業界初の試みに取り組む。

社長の人間的魅力と社の取り組みに魅せられ、入社を決意

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藤沢支店の山田博支店長は、大学卒業後、中堅マンションデベロッパーとして成長を続ける会社に入社。若いうちから大きな仕事を任されながら、不動産開発のイロハを身に付けてきた。しかし、6年前の2009年に転機が訪れる。当時の勤務先企業がリーマン・ショックの影響をうけ、業績が急速に悪化。山田氏は希望退職し、次の道を探すことにした。

「同世代の従業員が同時に辞め、さまざまな業界にでていくことになりました。私自身、さあ、これからどうなるのかなと、先を楽しむ思いも半分あって。エージェントに登録しながらオファーを待つことにしたのです」

登録後まもなく平成建設からオファーが届く。秋元社長直々に面談の希望とあり、沼津を訪れた。これが運命の出会いとなった。「正直に言うと、地方で働くことは考えていませんでしたから、ためらいはあったんです。しかし、秋元と会って大工・職人を育てる会社の取り組みや、家をつくる人とそこに住む人がつながる本来的な住まいづくりにこだわる姿勢、価格競争はせず本当にいいものを提供するなどの話を聞き、社長の強力な個性とその考えに引かれました」

また、全国の有名大学を卒業した若者が集まる人材の層の厚さも魅力的にうつった。「他社がまねできないコアコンピタンスをがっちりと持っている。仕事の面白みに比べれば、地方の会社であることは大きな問題ではないと信じることができたのです」

共に働く「仲間」のために、やりがいある案件の契約に奔走

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デベロッパーとしてマンション開発など大規模プロジェクトを手掛け、発注者として外注に仕事を依頼、監督する立場だった山田氏だが、平成建設ではまったく異なる環境に身を置くことになる。営業だ。初めての営業職は、正直なところ最初の3カ月でくじけそうになったそうだ。

「会社が沼津よりも東のエリアで拠点展開したいという話もあったので、できたら、新規展開の拠点でマネジメントができたらいいなという思いは面接の段階で伝えてありました。そのためにも、とにかく早期に実績を上げたかった。45歳の体が悲鳴を上げるまで粘りましたが思うようにいかず、しばらく葛藤が続きました」

入社から半年後に25戸の集合住宅の契約が成立。営業から総務部に異動となり、さらに1年後に現在のポジションである藤沢支店の支店長に就任する。「支店長となった今は、メンバーを幸せにするために会社をどういう方向へ導いていくか、営業的にも数字をどのように伸ばすかを考える毎日です」

毎日の仕事のなかで、建物をつくってくれる職人が目の前にいることは、山田氏の意識に大きな変化をもたらしている。「これまでの仕事では、実際に建物をつくる職人とのコミュニケーションは限りなくゼロに近いものでした。でも今は、職人は一緒に働く仲間だと感じています。ある意味、当社の職人たちがいい仕事ができる環境づくりを、弊社では社長以下全員で整えているといえるかもしれません」

「HEISEI DAIKU MIND」で目指す高付加価値建築

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従業員数が500人を超え、海外さえも視野に入れた支店の拡大を進める平成建設。「会社が成長していくこの過渡期に、自分に何ができるかを考えることが一番面白い」と山田氏。

平成建設は人と人との関係を大事にしている会社だ。顧客との関係は当然ながら、従業員同士にも細やかなコミュニケーションが成り立っており、対話の成果がつくられる住宅に反映されている。コミュニケーションという面では、秋元氏は率先して従業員との対話を大切にしているだけでなく、従業員全員の名前を覚えている。

「理想は“家族的な会社”と社長は言っていますが、規模が大きくなってくると、これまではできていた家族的なつながりを維持することが難しくなってくるかもしれません。私としては、会社が拡大を続けるなかで、さまざまな意見を集約しながら、その進むべき方向性を見いだす役割を担っていけたらと考えています」と話す。

これから本当の意味で鍵となるのが、付加価値のある建築をより多くつくり続けていくことだ。技術と伝統を受け継ぐ「HEISEI DAIKU MIND」を全社であらためて共有し、社長をサポートしながら新たなステージを目指す。

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式会社平成建設藤沢支店 支店長

山田

2009年、株式会社平成建設入社。厚木支店での営業と沼津本社での1年間の総務部勤務を経て、2011年より藤沢支店 支店長。

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