奥出雲発~伝統工芸イノベーションは世界へ向かう
嶋 啓祐
2017/07/07 (金) - 08:00

夏は棚田の美しい田園風景、冬は一面雪景色のモノトーンな世界。島根県の奥出雲にははっきりとした四季と変わることのないのどかな風景、そして日本の伝統様式を踏襲する工芸品が多数存在しています。日本文化遺産にも指定された奥出雲ではいま何が起きているのでしょうか。伝統から革新へ舵を切る亀嵩算盤合名会社の若槻和宏氏にインタビューし、奥出雲地方の今をお伝えしたいと思います。

いまも息づく神話とたたら文化

東京からエアで70分。出雲縁結び空港から約1時間の道のりはのんびりとした風景が広がります。海と川と山がコンパクトにつながり出雲周辺は、712年に編纂された日本最古の書物、古事記のクライマックスシーンに数多く登場する神話と歴史が息づくところ。今も神話の舞台となっている出雲大社、そしてその周辺の神社や名刹などではその地に根付く神楽が伝承され、それは歴史愛好家から海外からのツーリストまで広く知れ渡っています。

奥出雲はかつて「たたら製鉄」が盛んで高品質な玉鋼を使った刀や鉄製品を産み出した日本の産業の核ともいえるところでした。多くの山林王が存在し、山を削り、砂鉄を採り、それを鉄に変える。削った山は棚田として再利用し、その財はいまも日本遺産として残されているほど。そのような環境の中、亀嵩では古くから算盤製造が盛んで、現在も以前よりは減少しているとはいえ全国の珠算塾や文具店にしっかりと出荷されています。

重要な算盤文化の継承

亀嵩算盤合名会社は1922年創業。1966年に生まれた若槻和宏氏は、来客が絶えない商家の環境で育っていきます。全国から訪れる商人を相手に振舞われる郷土料理や地酒の数々。
「気がつけばそのまま宿泊されるゲストも多くて、今とは考えられないような賑やかさだったんですよ。」
小学校低学年の頃には松本清張氏の不朽の名作、「砂の器」のロケが小説の舞台ともなった亀嵩で行われています。小説には亀嵩算盤も登場することからか、何度か来訪され、事務所には直筆の色紙も。最近では人気俳優を主人公にしてテレビ版の収録もあったことも記憶に新しいことだと思います。「今も松本清張ファンが来てくださるんですよ。」
事務所の壁には往年の砂の器の世界が広がっています。

若槻氏は地元の高校から東京の大学に進学し、四年間を過ごします。亀嵩で生まれ育ち、一度は都会の空気を吸うために上京を果したわけです。一度は違う世界のビジネスを経験することも考えたものの、伝統産業のパラダイムシフトに揉まれる地元に帰り、貢献する気持ちから卒業後はすぐに家業を継ぐことを決意。当初は地方周りの営業を担当し、全国津々浦々まで足を運びます。しかし、そのなかで見た現実とは、電卓やPCといった電子機器にとって代わられる世界だったのです。かつては子供たちで賑わいを見せていた珠算塾も減少し、商店街の書店や文具店も減少の一途。従業員も徐々に減っていき、流通ルートも少なくなり、だんだんと行き詰まりの時を迎えます。

煤竹との出会いとひらめき

そのような状況を変えるきっかけだったのが、いつも身近で見ていた煤竹だったのです。煤竹はその強度から茅葺屋根を持つ古民家の建材として、広く使われていたのですが解体の度に先代が引き取り、ずっと倉庫に保管し続けていたものでした。算盤の軸として使われてはいたものの、製造が減少していく中、
「これを箸にしたらどうだろうか!」と閃きます。
これまで煤竹の箸は他社製の、非常に高価ながらも一部では流通しており、商品化のために全国を巡り始めます。彼が目にして手に取った煤竹箸は材質もムラがあり、デザインもさっぱり。使い勝手もいいとは言えず、それも安易に塗装がされているものがほとんど。それをみて、「これなら勝てる」と考えます。

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それからは倉庫にあった煤竹との格闘の日々が始まるのです。もちろん最初は思い通りの箸には到底なりません。作っても作っても納得がいかない。後日彼はその当時のことをこう振り返ります。
「相手、つまり煤竹が何を思っているかを考えていなかったんですね。自分の思いだけをぶつけてしまって素直さがなかった」と。
モノつくりは突き詰めてたどり着いたところに、ブレイクスルーのポイントがあるといいいます。彼の場合も幾度となく壁に突き当たり、そのたびにもがき苦しみ、そして結果的に到達したのは、目の前にある煤竹の持ち味を素直に引き出すこと。
そこからは、吹っ切れたように煤竹の箸が産まれていくのです。

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しかし、次の壁はすぐにやってきました。

ストーリーの重要性

「さあ、どこに売って歩いたらいいか。」

何とってもすべて手作りで一点もの。同じものを10セットといわれても作りようがないのが煤竹の箸の特徴です。機械で作るわけではないので時間もかかります。今でこそ慣れて手作業ながら効率的に生産できるようにはなったものの、実際に手に取ってみて初めてわかるものなので、安易にネットで販売などできません。

単に「箸」という商品で考えると競合となる商品はたくさんあります。しかし、煤竹の箸の特徴は先を細くしても折れづらい、見栄えのいい対合わせのデザイン、そして何と言っても一点もの。これをアピールする目標を掲げ、展示会や商談会に積極的に足を運びます。その結果、東京の大手百貨店のバイヤーや伝統工芸品を扱う専門店、そして名だたる料理人の目に触れていったのです。ちなみに調理に煤竹の菜箸を使うと、熱に強く、強度もあり、先端が細いので繊細な盛り付けにもってこいとのこと。

今や、煤竹の箸は高価な値段(1セット15000円前後)にも関わらず、その価値を理解する顧客から注文が途切れることなく続くまでに成長しています。若槻氏はその流れをうまく利用して、煤竹を柄に地元の鋼を使ったナイフや工芸品を制作中とのこと。地元ではほとんど流通していないにも関わらず、噂や評判を耳にした出雲地方の名家からも注文が入るようになり、デザインと手作業にかける時間はどんどん増えていると聞きます。

これからのマーケティングを考えていくにあたりひとつのストーリーを思いつきます。それは地元のヤマタノオロチ伝説。奥出雲の地に降り立ったスサノオは上流から流れてくる一対の箸。その上にいたのはヤマタノオロチに命を狙われる父母と愛娘の稲田姫です。スサノオは彼らを守るために単身オロチに立ち向かい、見事に勝利し、稲田姫を娶るのです。箸は西洋のナイフ、フォークと違い、一対で素材や料理と向き合います。二つ合わせてひとつ。これは日本だけの文化なのではないでしょうか。煤竹は左右同じではなく、くっつけて一つの形になるのです。これで煤竹箸イコール縁起物となったのです。

一般的に箸は消耗品と考えられています。塗料は落ちますし、先端もゆっくりと欠けていきます。折れることもあるでしょう。
「煤竹の箸は、いわゆるエイジングしていくものなんです。通常の箸と違って、折れることも滅多にありません。生涯お使いになれると言っていいと思います。」
生涯に亘り、使う方に寄り添うものというストーリーを感じてもらえたらと話す。

ブレイクスルーのポイント

奥出雲という人口が1万人にも満たない町で事業を続けていくのは困難を極めます。若槻氏のビジネスのポイントは3つあると考えます。ひとつは伝統事業である算盤制作販売を下火ながら継続していたこと。これは現在でもある一定の需要があり、そのほか算盤自体が「アート」として外国人に人気が出てきているということにつながっています。そして二つ目は、まったく新しいことを始めたのではなく、身近にある資源をリサイクルという形で商品化したことです。言ってしまえば茅葺屋根の囲炉裏の上にある煤けた竹を箸にして再利用した、ということです。

この二つ目のポイントには大きなヒントが隠されています。同じ島根県隠岐にある海士町は離島ゆえ「ないものはない」というスローガンのもと、都会から移住者を呼び込み、CASという瞬間冷却システムという新技術を使って海産物資源の外販に取り組んで成果を出しています。奥出雲や海士町に限らず、いま、ここにあるものは何か、それを誰がどう使うか。これぞまさに地方創生のために取り組んでいく基本なのではないでしょうか。

そして三つ目。いきなりイノベーションは起きません。起きても一時のものであることが多いものです。大切なことは取り組んでいることが好きかどうか。若槻氏は自らの言葉でこう語ります。

「論語の孔子の言葉にこんなのがあります。 之を知る者は、之を好む者に如かず 之を好む者は、之を楽しむ者に如かず それを知っている者は、それを好きでやっている者には敵わない。 それを好きでやっている者は、それを楽しんでやっている者には敵わない。このような意味だと聞きました。 好きな事を楽しくやっている。 こんな幸せなことはありませんね。 好きな事を楽しんで仕事にすると、苦役ではなくなると言われます。 それを天職として日々取り組めるのはありがたいことです。 やり甲斐と生き甲斐を感じながら煤竹と向き合う毎日です。」

イノベーションと楽しさの共存

地方創生は大金をつぎ込んで取り組むことでもありません。気がつかないけれど目の前にあるものを見つめ、そこから小さなイノベーションを続けていく。その先にはまちがいなく若槻氏の言う「楽しさ」があるのでしょう。

現在、若槻氏は自らの後継者を探しています。煤竹の製品をまだ知らない日本に、そして海の向こうの世界へ広めていくという目標を持っています。「作るのは得意だけれど、売るのはどうも得意ではないかもしれない」と頭を抱えるときもあるようです。いい素材と製品は揃っています。あとはこれからどうやって販売網を広げていくか、ともに考え、実践していく人材を探しています。

筆者も煤竹の箸を使って早半年。真摯な気持ちで日々の食卓に向き合うことができる上に、使い勝手が非常によく、もう他の箸は使えない気持ちにすらなります。

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若槻 和宏さん

1966年島根県奥出雲町亀嵩(かめだけ)生れ。85年県立横田高校を経て国士舘大学入学。卒業後、父の経営する亀嵩算盤合名会社入社、日本の伝統製品である算盤文化を継承し、新規事業として煤竹(すすだけ)を用いた商品開発に取り組む。日常的に「手で使うもの」に煤竹を取り入れ、モノづくり・手仕事に試行錯誤の毎日を送る。趣味の写真は地元でもその腕前は良く知られており、初孫の姿を撮り続けるのが楽しいと話す51歳。

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