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大原孫三郎 ー倉敷から世界的企業を興し、先端的な労働環境改善を達成した実業家ー【前篇】
木下 斉
2018/09/07 (金) - 08:00

江戸後期から明治、大正、昭和初期の地方を支えた実業家たち

かつて地方において様々な実業家が生まれ、地域発展に貢献してきた歴史があります。
しかも、ほんの150年からつい最近の話であったりしますが、地方創生の文脈ではあまり振り返られることが多くありません。地域や都市の発展は、短期的な成果で成功失敗を語ることは難しく、むしろ過去に取り組まれたことで今の発展につながっている事象を顧みることはとても大切です。

地方発展に寄与した実業家たちの一部は、単に金儲けで大成したというだけでなく、地域における上下水道や道路などのインフラ整備、病院などの医療施設整備、学校などの教育機関などの整備といった公共的事業にも幅広く貢献した人物が多数います。

今回、2回に渡り取り上げるのは、岡山県倉敷市において倉敷紡績、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国銀行の前身となる中国合同銀行の社長を務め、地方財閥・大原財閥を作り上げた「大原孫三郎」です。

大原孫三郎の実業家としての評価について、後に法政大学総長となる経済学者・大内兵衛が、昭和35年全国統計大会において大変象徴的なスピーチをしています。

「彼は、その作りえた富を散じて公共の事業をしたという点では、三井も、三菱も、その他いかなる実業家よりも、なお偉大な結果を生んだ財界人であったといっていいと思います。(中略)金を散ずることにおいて高く自己の目標をかかげてそれに成功した人物として、日本の財界人でこのくらい成功した人はなかったといっていいでしょう」

なぜ大原は中央財閥を超えたのか。彼が素晴らしい財界人と呼ばれる所以を探りたいと思います。前篇の今回は、彼が果たした地域産業への「稼ぐ」貢献について注目します。

放蕩生活の末、心機一転事業に打ち込む。

大原孫三郎の話についてその実績だけを語ると、親近感が沸かないような素晴らしい実績ばかりなので、彼が実業家として成果を収める前の話を少しばかり。彼の学生時代は東京で悪い仲間に連れ回されて、仕送りでは足りなくなり、高利貸しに手をだしてしまいます。明治30年頃に1万5千円ものお金を借り入れ、父親も見かねて地元の倉敷へと連れ戻します。当時の総理大臣の報酬が1万円強だったといいますから、とんでもない金額であったことがわかります。

そして孫三郎が父のように慕っていた義兄・邦三郎が、高利貸しとの返済交渉などをしている最中に過労が原因と思われる脳溢血で急逝してしまいます。自らのだらし無さによって身内に不幸まで起こしてしまったことで、孫三郎は猛省し、倉敷の地で身を立て直すことを決意します。

27歳にして、倉敷紡績社長に就任。5つの改革。

そして、父の退任の後に若干27歳で倉敷紡績の社長となった孫三郎は、主に5つの改革を行い、企業を大きく成長させていきます。

まず1つ目が、当時工場において常識とされた「飯場制度」の解体です。当時の工場勤務者は住み込みが基本、その生活に必要な一日三食の食事や売店などの経営を「飯場」と呼ばれる業者へ外注して経営効率を高めていました。しかしながら、飯場事業者は工場経営会社から受け取った売上で利益を最大化するため、劣悪な食事を提供したり、自由に買い物に行けない工場勤務者の立場を逆手に取って売店では高値で商品を販売するなど、極めて非人道的な環境が放置されていました。これをすべて倉敷紡績が直営で食事、売店などの経営に乗り出すことを行います。

2つ目が寄宿舎の改善です。大部屋方式の寄宿舎はできるだけ狭い部屋に大人数を詰め込むのが一般的で、プライバシーなども確保されず、衛生面でも問題がありました。これらを改善するために、分散型の平屋建ての寄宿舎を増築し、花や野菜などを敷地内に植えるなどしました。

3つ目は幹部人事にも手を入れて、古株の役員・職員などを入れ替え、若い学卒者を積極的に採用し、会社の未来について毎晩と議論を行うなど単なるオーナー会社としての経営のあり方を変えていきます。

4つ目はM&Aや新規創業にも積極的に乗り出します。孫三郎は積極路線へと舵を取り、倉敷紡績とともに岡山県下を代表する紡績会社である「吉備紡績」を買収。倉敷紡績より新たな設備などを揃えていた吉備紡績に採用していた学卒者たちを要職につけて活躍させて、会社を急成長させます。さらに必要電力供給のための火力発電、水力発電などを行う備作電気にも投資して自らも役員に就き、成長を遂げていきます。大正15年には、国産レーヨン製造販売のための倉敷絹織株式会社(現在のクラレ)を設立するなど、事業多角化に突き進んでいきます。

5つ目は、独自の労働者を尊重する資本政策です。初年度から増益、八万円の利益を出します。一般的には役員報酬や配当を増やすところを、孫三郎は役員報酬と配当を減らし、その分、工場勤務者たちの生活環境改善のための寄宿舎改良基金を創設して、二万円を充当。会社成長に歩調を合わせるように社宅のさらなる整備、共済組合の設立など労働環境改善、さらに教育機会の提供をあわせて実施。さらに、大正9年には株主配当を減らし、労力配当を新設、その他も様々な従業員向け基金を次々に設立。他社よりも配当性向を落とした経営を行う斬新な資本政策により従業員は恵まれた環境で大いに実力を発揮し会社の成長を支えることになります。

異色な経営方針は、中長期的な企業発展を支えた。

孫三郎の挑戦は極めて異色でした。

当時は米国において開発され、工場からのスループットを最大化する「科学的管理手法」が工場経営における金科玉条のように採用されていました。しかし工場勤務者をあくまで生産機械のように扱い、人間性を無視しているという批判も強くありましたが、多くの経営者は生産性改善のために科学的管理手法を採用し、管理を強化しました。

しかし、孫三郎は逆に労働者の人間性にフォーカスを当てた会社経営を徹底し、業績を伸ばしていきます。それは、他企業よりもより良い就業環境を提供することによって、単なるコスト増ではなく、よい社員を集めることに寄与し、さらに優れた生活環境は社員たちの高い生産性を実現したからです。短期的に見れば無駄なコストのように見えるものも、中長期的にみれば会社の成長を支える優れた社員を集めることに繋がるという極めて合理的な方法です。しかし、そのようなことが一般的ではなかった大正、昭和の時代において地方都市から先端的な労働環境整備を行いながら、会社を成長させた実業家がいたことは驚かされます。

そして、孫三郎の事業的功績は多様な繊維産業集積などを通じて地域経済基盤を支え続けています。

全員に理解されない価値を作り出すオーナー経営者

度々、会社の役員や株主などからその理想主義的経営が効率を阻害すると批判があっても、大株主であり、経営者である孫三郎は自らの経営方針を曲げませんでした。そして周りには常々「主張のない仕事はひとつもしない。主張のない生活は一日も送らぬ」と語っています。

また、大原は自らの経営判断として「十人の人間の中、五人が賛成するようなことは、たいてい手おくれだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいがいいという間に、仕事はやるべきものだ」と述べています。

このような一部の他者からは理解されないうちに、価値ある仕事はやめべきだという理念だったのです。このような判断を実行できたのは、もちろんオーナー経営者だからこそ。今の日本においても同族企業のほうが、非同族企業よりも中長期的な成長を果たすという研究成果が多くあります。それは資産として多くの株式を保有するオーナー家は短期的業績より、中長期的な業績を優先し、経営責任も明確だからブレないからだといわれます。今の地方においても成長する企業の多くはオーナー経営者企業が多く、そして他者からすると常識破りな独創的な経営によって成長しているものばかりです。

意味ある形で金を散じた孫三郎の功績

「人格主義」を掲げた経営理念と積極的な拡大路線という相反するようで、実は極めて整合性のとれた独自の経営によって、会社を急成長させた大原孫三郎。しかし彼は本業のみならず、様々な研究所設立、倉敷中央病院の整備、そして今では300万人を超える観光客が訪れる倉敷市美観地区や日本初の西洋美術館・大原美術館といった本業外の功績が多数あります。

今回は孫三郎の「稼ぐ」ことに注目しましたが、次回は、「金を散ずること」に注目した解説を行いたいと思います。

【参考文献】
城山三郎「わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯―」(新潮文庫)
入山章栄「ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学」(日本BP社)

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