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ITで世の中を変える。会津から、全世界に向けた技術を発信(前編)
株式会社会津ラボ
GLOCAL MISSION Times 編集部
2018/06/25 (月) - 08:00

観光、エネルギー、ロボット、医療、そして農業――。IT技術を使い、幅広い分野に対する新しいソリューションを提供する会社「会津ラボ」。「会津にシリコンバレーをつくる」という恩師の想いを実現すべく、ITを通じて世の中を変える価値を創造し続ける、代表取締役の久田雅之さんにお話を伺った。

大学で出会った「会津にシリコンバレーを作る」というビジョン

—愛知県出身でありながら、会津で起業された。まずはご自身の生い立ちから、そこに至る軌跡についてお聞かせください。

親の趣味がアマチュア無線で、機械に囲まれた生活が当たり前だったこともあり、私も幼少期からパソコンでゲームをしていました。そのうち、ただ遊ぶだけでは飽き足らず「このゲームを難しくしてやろう」「ここでキャラクターを無敵にしたい」なんて思うようになり、小学校に上がる頃には、自分で専門誌を買ってきて、独学でプログラムをいじるようになったんです。
高学年~中学生ぐらいの頃にはアマチュア無線の国家資格も取得しました。この頃は当時流行っていた感染型プログラム(コンピュータウィルス)の開発を行うようになりました。たとえば、夜10時を過ぎると『子どもは寝る時間だよ』というテロップが出るウイルスを友達のゲームに組み込んで、感染させて遊んだり。結局、高校卒業までずっと、コンピューターと剣道、この2つにひたすら没頭していました。

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代表取締役 久田 雅之(ひさだ まさゆき)さん

―地元である愛知県を離れて、当時、創設間もない「会津大学」に進学されたのはなぜですか?

たまたま全国模試の時に、「コンピューター理工学部」がある会津大学が目に飛び込んできたんです。早速資料を取り寄せてみたら、先生の7割近くは外国人で「全世界からコンピューターサイエンスのトップを集めてきた」と書かれていて。日本でコンピューターを学ぶ場合は、工学部情報工学科や理学部情報化学課に入学して、コンピューター以外の分野も勉強するのが一般的なのですが、会津大学はコンピュータ理工学部の単科、コンピューターをソフトウェア、ハードウェアそれぞれの学科に分けて勉強ができる日本ではじめてのコンピュータ科学専門大学。そんな場所がたまたま自分が高校を卒業する年に出来て、迷うことなく会津大学への進学を決めました。

―会津大学での学びが、久田さんにとってのターニングポイントとなったのでしょうか?

入学式で、初代学長である國井(利泰)先生の言葉に衝撃を受けました。「私は会津にシリコンバレーをつくるために来た」と仰るんです。入学後直ぐに國井先生とお話する機会があり、会津大学に来た理由を問われた際に、「世界最強のコンピューターウィルスを作りたい」と伝えたところ、それを機にかわいがっていただくようになりました。僕の変わり者な志向を、気に入ってもらえたのかもしれません(笑)。休日も一緒にスキーに連れて行ってもらって、滑りながら「久田くん、今のね、重力落下運動に対して自分の力と力学系のシステムがどうなっているかわかる? これが分からなければ君はコンピューターでスキーを正しく理解できないよ」と言われたりして。

國井先生と話しているなかで気付いたのは、僕はゲームを改造したりとかプログラムを打ち込んだりはできるけど、今世の中にないものをつくることはできないということ。ところが会津大学で國井先生の教えのもと一生懸命勉強すれば、世にないコンピューターやソフトウェア、ハードウェアがつくれると思った。それで、國井先生にどうしたらいいですか?と尋ねたら、まだ入学して1週間だったにもかかわらず「まず君はドクターを取りなさい」と言われて。僕はその時点でドクター(大学院)まで行くと決めました。

会社員から大学教員に転身。そしてベンチャー創業へ

—それから9年かけて、会津大学で博士号を取得されました。その後は、いきなり起業されるのではなく、民間企業で研究職に就かれたようですが、それはなぜですか?

もちろん起業するという選択肢もあったのですが、当時はまだ人脈もお金もなく、企業する術が全くわからなかった。進路について迷っていた際に当時の会津大学学長池上先生に「海外では優秀な学生は一度外に出るものだ、ぬくぬくと自分の出身大学で仕事していたら駄目になる」とアドバイスをいただき、カナダの研究所で一年間学べる条件付きのベンチャー企業に就職しました。しかしながら入社後わずか1ヵ月半後にその提携先の会社が海外大手に買収され、最終的にはカナダに行く機会もなくなり。結局1年で会社を辞めて、金沢工業大学の先生に転職しました。そこでは新任の教員が15名近くいたと思いますが、全員3年の任期付き、任期満了後にここから終身雇用を得られるのは数名という狭き門でした。私は教育・研究の両面が評価され何とか終身雇用枠にも入ることができ、順調に行けば40代前半で教授になれるかもしれない…という安泰の道が約束されていたのですが、自分としてはなにかが違うと感じていて。
そこでもやっぱり、國井先生や池上先生の「できるやつほど自分の実力を試すために起業するんだ」という言葉を思い出し、奮起。奥さんや親にもあまり相談せず、翌日に退職願いを出していました。

—思いきった決断ですね。そこからなぜまた、起業の地として会津に戻ることを選ばれたのですか?スポンサーがいらっしゃったとか?

違います。会津の人からは資金援助を受けたことはないです。ベンチャー起業って、わかりやすく東京の地を選ぶケースが多いとは思うのですが、僕は通勤で地下鉄の満員電車に乗らなければいけない都会の生活が嫌だったので、その選択肢はなかった。それでどこにするかと考えたときに、生まれ育った愛知よりも、18歳から27歳まで過ごした会津の方が実は相談できる人もたくさんいるし、IT・ベンチャーに対して積極的に支援してくれる地域であることも大きかったです。実際に、起業の際は会津大学や市役所の商工課なども積極的に協力してくださいました。あとは僕自身、田舎で育った人間なので、そうした環境で生活したい想いがあって、車通勤ができて、温泉にも入れて、冬はスキー、夏はゴルフにもすぐに行ける会津は最適でした。

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—そして、2007年に会津の地で、会津ラボを設立されたわけですね。

「成功するんだ」と根拠もなしに、会津に戻って2007年の1月に企業しました。最初は周りの方が出資して下さって、自分では1円も出さずに始めたわけですが、これが大失敗。いつまで経ってもプロダクトが動かず、だんだんお金も無くなってきて、とどめを刺したのが2008年のリーマンショック。投資をしてくださっている方たちにも「お金を返してほしい」と言われて、投資を受けるのが厳しくなりました。その後、会津大と旧国庫金が連携協定を結んだことから1000万円の融資を受けることができたのですが、2年間も収入のない会社は、お金を返せと言われても返せない。それまでは「すごいものを創ったら、世の中の人がみんな使ってくれる」と妄想していましたが、そこで初めて「まずはお金を稼ぐことを考えなくては」と思ったんです。

―そこからどのようにして、再生を図られたのですか?

最初にやろうとしたベンチャーとはかけ離れているのですが、ソフトウェア開発などの一般の受託業務を始めました。そうすると徐々に仕事が増えていって、3〜4年後にはiOSやアンドロイドのスマホアプリの開発業務が一気に溢れてきた。それに付随して、スマホのシステム開発も必要になり、最終的には採算が合うようになってきたんです。そして10年かかって、最初の1年半で作った累損を清算しました。

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全世界に対して価値の創出ができれば、結果も自ずと付いてくる

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