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地方への移住で見出した「半農半ラジオ」の生活
兼行 太一朗
2019/02/05 (火) - 12:00

地方移住への足がかりとして注目を集める「地域おこし協力隊」。山口県周防大島町で「半農半ラジオ」の生活を営む三浦宏之さんも、その制度を活用した一人です。現在は、念願の農業を主体に、キャリアを生かしFMラジオ局でディレクターにも携わるという充実の日々。自然と向き合う暮らしで彼が得たものを紐解きます。

憧れたラジオの世界でディレクターとして活躍

「歌謡番組内のリクエストで姉の名前が読まれ、わたしも必死になって電話をかけていました。ついに採用され名前が読まれたときの感動はいまでもよく覚えています」と三浦さん。

その後、高校時代には受験勉強の後に深夜放送を聴いたり、AFN(駐留米軍向け放送局)のDJを主人公に描いた映画「グッドモーニング,ベトナム」(1987年)で流れる音楽に感動したりと、成長の過程で常にどこかにラジオが存在していたといいます。

両親の安定志向もあり教師を目指していたという三浦さんでしたが、大学受験の過程で、やがて「自分に務まるのか…」と疑問を抱くようになったそう。法政大学への進学後、「テレビ局のディレクターになりたい」「アナウンサーを目指している」という同級生たちとの出会いが彼の転機となります。

「『放送』という世界に、将来の夢を描いてもいいんだと、彼らに出会って初めて思いました。それで、アナウンス研究会へと入会したんです」

三浦さんは同サークル内で音響を担当するミキサー部へ所属。「半農半ラジオ」の「半ラジオ」のストーリーはここに始まります。

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アナウンス研究会での活動、そして番組制作会社への就職を振り返る三浦さん

当時、お気に入りのラジオ番組の一つだった「オールナイトニッポン」を聴きつつ、同サークルで活動する自身を重ね合わせながら、将来の仕事として意識を始めたそう。就職活動においては、アナウンサーとして歩むことは叶わずも、ミキサーという役割にも面白さを感じていた彼は、番組制作会社で念願のラジオの世界へと足を踏み入れます。

「現場に入ってみて、しゃべるよりも裏方向きだと実感しました。仕事は在学中からはじめ、忙しさで卒論どころではない状況に。卒論を諦めようかと考えたこともあったのですが、『大学だけは出ておいた方が良い』と、先輩ディレクターたちに諭され、なんとか頑張りました」

やがて、経験を重ね、アシスタントディレクターからディレクターへ。2001年10月には、フリーランスへと転身します。

「フリーで活躍していた先輩ディレクターたちは、『2年修業すれば十分』と言うんです。だから、この業界では独立は既定路線なのだろうと思い込んでいたところもあります。『5年は働いて』と社長からいわれたとおり、ちょうど5年で独立です」と三浦さん。

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番組制作現場での日々の様子(写真提供:三浦宏之)

担当番組をきっかけに抱いた農業への夢

フリーディレクターとして、番組制作に携わる日々を送っていた三浦さん。環境や健康、食などをテーマとする「LOHAS SUNDAY(ロハスサンデー)」(J-WAVE)を担当したことによって、同分野にも関心を抱くようになります。

「自分でも何か心がけてみようと考えたのですが、東京暮らしではなかなか困難。せめて、国産品のものを食べようと、豆腐や納豆、油揚げをスーパーで買おうとしたら、原材料欄に記載されているのはなんと外国産大豆ばかり。醤油や味噌なども含め、日本人の食卓において、大豆が成す役割はとても大きいのに、国産大豆製品の圧倒的な少なさに初めて気が付いたんです」

いつか自分で大豆を栽培できないものだろうか――。彼にとって2005年ごろの出来事ですが、これこそが「半農」のストーリーの起点、いつか農業に携わりたいという夢を抱いた瞬間だったといいます。

農業への手応え、将来を考え田舎への移住を決断

2006年、三浦さんはディレクターとしてさらなるキャリアアップのために、フリーランスから再び組織への所属を選択し、株式会社J-WAVE MUSICへと移籍します。

「次のステップはプロデューサー。しかし、外注を受けるには非常にハードルの高いポジションです。フリーの時に一緒に仕事をしていた方からお誘いがあり、自身のこれからを考えて決断をしました」

さらに、私生活においては、子どもが誕生。これからの子育てを考える上で、“自然、田舎暮らし”というキーワードは、彼の中で重みを増していきます。そんな中、思いがけず畑仕事に直接携わるという機会が訪れます。

2010年、子どもを入園させた幼稚園で、父親が子どもと一緒に農作物を栽培するという取り組みがあり、2坪程度の畑とはいえ、実際にトウモロコシ、大根、人参、枝豆などの栽培を手がけることに。

「意外と上手く育てることができたんです。野菜栽培の知識に長けていたお父さん仲間に助けられたというのもありましたが、『これなら自分にもできるかも』と手応えを感じました」と三浦さん。

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幼稚園の「おやじ組」で、子どもたちとともに取り組んだ畑仕事(写真提供:三浦宏之)

そして、2011年3月11日、東日本大震災が発生。「震災直後、園長先生は『仕事は些事。家族とともに避難すべき』といってまで心配してくださいました。『何をして生きていくべきなのだろう』とこれからの暮らしや育児について深く考える大きな転換点となりました」と当時を振り返ります。

彼は、子どもの卒園を待って「田舎」への移住を決断。田舎育ちの三浦さんにとって、都会で暮らす違和感はすでに学生時代からあったそうで、伊豆諸島や沖縄の島々など、家族旅行先では、いつも「ここに住めるかな」と夫婦で話すのが常だったといいます。

「地域おこし協力隊」として周防大島へ

田舎での子育ては妻・さおりさんの念願でもあったそう。移住に向けては、当面の現金収入や地域でのサポートが受けられる、2009年に総務省により制度化された「地域おこし協力隊」を活用することを夫婦で話します。

同制度は、地方への移住を志す人にとってはその足がかりとなり、また、地方自治体にとっては地域活性化を託すための人材発掘手法の一つ。2016年度までに全国で2,230人が隊員として活動し、6割超がそのまま任地での定住を選択しています。

「島」「温暖」という前提で各地の応募状況をリサーチしていた、三浦さん夫婦の目にとまったのは、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島町。同町は「起業の島」として移住者、起業者が多くいますが、さらなる移住者を呼び込むための一環として、2012年に初めて地域おこし協力隊員を募集しました。

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本土側から見た周防大島。「起業の島」としての活気は注目を集めるが、高齢化率は島全体で50%に達しており深刻

「周防大島のことは何も知らず、最初はピンとくるものがありませんでした。さっそく図書館に行って、キーワード入力で関連書籍を検索すると予想をはるかに超えて蔵書が示され驚きました」

その著者で特に目を引いたのが島出身の民俗学者・宮本常一のものだったそう。「私の日本地図」(未來社、1967~76年)で紹介されていた棚田や集落の素朴な風景を見るうちに、「行こう」とすっかり魅了されたのだとか。

2012年11月、家族を連れて初めて島へと訪れます。自給自足で生活をしていた先輩移住者を訪ね、実際に栽培している米を見せてもらったり、さらに複数の移住者の紹介を受けたりと大いに実りあるものとなったといいます。

「本で見たそのままの景色に出会うことができました。何よりも、バイオディーゼル燃料に対応した耕運機を使っているとか、手回しの唐箕(とうみ。穀物の屑、殻などを選別する農機具)を使っているとか、そんな会話が目の前で行われているのが本当に心地よく感じられました。東京などでは、専門家と話す以外にそんな会話はありえません」

三浦さんは、移住家族との出会いに大きく背中を押され、17年間関わってきたラジオの仕事を辞し協力隊への応募を決意します。

「移住して何もかも上手くいくということはないだろう。でも、こんな人たちと暮らせるなら十分ではないか――。協力隊になれなくても、周防大島で暮らそうと考えていました」

念願の田舎暮らし。無農薬、無化学肥料への挑戦

周防大島町初となる地域おこし協力隊への応募者は、定員1人に対して三浦さん含めて5人。彼は、インターネットを活用した情報発信などを主体に活動計画を提出していたそう。

面接の際には、役場担当者のほか、先輩移住者として成功をおさめていた「瀬戸内ジャムズガーデン」の松嶋匡史さん、「起業の島」の仕掛け人、「株式会社ジブンノオト」の大野圭司さんが審査役に名を連ねていたのだとか。そして、2013年2月、山口県内の各メディアにおいて「周防大島町に地域おこし協力隊第1号が着任」と、三浦宏之さんの名前が報じられることとなります。

「任期は3年。ブログでの情報発信のほかに、『美しい三蒲(みがま)を創る会』で環境美化にも携わりました。さらに、番組制作に携わっていたということで地元CATV局『周防大島チャンネル』で『よそもの目線』というインタビュー番組にも長く出演させてもらいました」

そして、農業においても、耕作放棄地を借りるために苦労はあったものの、先輩移住者が苗を用意してくれていたおかげで、移住してすぐに稲作に着手することができたそう。

「農薬、化学肥料を一切使わないというなかで、米は上手くできたのですが、野菜の栽培は全くダメでした。長年、農薬にまみれ化学肥料に頼っていた土地は痩せこけてしまっていて…。念願の大豆栽培も苦労ばかり。収穫後も手作業にこだわったため、大変さ、貴重さがよく分かりました」

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三浦さんが取り組む稲作は、無農薬もさることながら、耕しもしないという「不耕起農法」。地域の人の心配をよそに、しっかりと実現して見せた。「スニーカー田植え」というイベントも開催している(写真提供:三浦宏之)
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野菜栽培にもいっさい農薬や化学肥料は使用しない

農業に向き合うためにはいかに時間が必要か、無農薬、無化学肥料であればそれは尚更のことだったといいます。やがて、地域の人のアドバイスもあり、農業も土地管理業務という形で協力隊の業務の一つとして認めてもらえることとなったのです。

「自分でつくった米や野菜が食卓に並び、そして子どもに『うちの畑で獲れた』と聞かせながら味わえるという喜びは本当に最高のものです」

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棚田の農地では鶏も飼育。日々新鮮な有精卵が手に入る

任期終了後、再びラジオの世界へ。「半農半ラジオ」生活の始まり

やがて、3年が経過。2016年1月をもって、地域おこし協力隊の任期が満了します。移住直後から取り組んでいた無農薬栽培米の販売など、農業のみでの生計を検討しますが、周囲から現金収入の確保をアドバイスされ、何をすべきか考え抜いた末、選んだのは過去に重ねたキャリアの活用でした。

「ラジオを聴くのは変わらず好きでしたが、その世界で働くことはもう2度とないと思っていました。何気なく聴いていたら、ラジオパーソナリティーのオーディション告知があり、またその話題の後に流れた曲が良かったんです。そして、自分だったらどんな選曲をしただろうと…、新たな扉が開いた気がしました」

当時、エフエム山口が実施していていたオーディションは、パーソナリティーに限ってのものでした。「もう一度ラジオの世界へ。DJもいいなと思いました。ギャラも良さそうでしたし、農業者としてDJができれば、自分の農作物の宣伝も遠慮なくできると思ったんです( 笑)」と三浦さんは当時を振り返ります。

「妻には、前日にオーディションについて伝えました。そしたら『いいじゃん』と。すかさず『ディレクターを打診されたら断らないで』と念を押されました。そうしたら、面接で開口一番『ディレクターで、というのはどうですか?』って聞かれたんですよ」と笑う三浦さん。

2015年12月、エフエム山口開局30周年を機に、平日(月~木曜)4時間の帯番組「COZINESS(コージネス)」がスタート。三浦さんは同番組のディレクターを当初は週1回、現在は週2回(水・木)担当しています。

「農業とラジオの兼業について、肩書きを『半農半ラジオ』としたのは、米がつくれるラジオディレクター、ラジオ番組が作れる農家なんて他にいないのではという考えがきっかけです。プロフィール的な面白さが一番ですが、中山間地域に身を置く人間が番組制作を手がけるのも意義が大きいと思っています」

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「COZINESS」は新山口駅構内の「ゼロスタジオ」(エフエム山口がサテライトスタジオとして運用)から放送中。同局は2018年4月より「radiko」にも参加し全国で聴取可能(山口県以外は有料登録が必要)となった

東京で働いていたころは、番組制作において、ミキサー、ディレクター、アシスタントディレクター、構成作家など、多くの人が関わっていたそう。対して、山口での同番組はDJの大和良子さんさんとディレクター・三浦さんの2人きり。

「複数人で関わる場合、進行途中で予定を変えるのは簡単ではないのですが、たった2人という山口での番組制作は、まるで『生き物』を扱うように臨機応変に進行させています。季節や自然を肌で感じられる農業に身を置いているからこそ、その日そのときに感じられたライブが、DJとともにつくれていると考えています」

リスナーとの距離感が近く、いちいちその反応に立ち止まれるのが楽しいという彼。「本当にやりがいを感じています」と、現在の充実ぶりを話してくれました。自身が周防大島でコミュニティラジオ局を開く可能性は?という筆者の問いに、「実は、『開いて』とよくいわれるんです」と苦笑い。

「オオシマアコースティック」に託す、生産者としての思い

三浦さんは自身で生産した米や島内の生産者から委託を受けた農産物を販売する上で、「オオシマアコースティック」という屋号を使用しています。移住した2013年からすでに使っているそうで、番組制作に身を置き、多くの音楽に接してきた三浦さんならではの解釈で、島で自らが手がける生産物への思いが込められています。

「オオシマアコースティック」は、いわば「オーガニック」に代わる固有の「自己認証システム」であると三浦さん。「あくまでも自己で、です。ただ、有機JASよりも基準は厳しいですよ。畑ではビニール製の資材すら極力使わないようにしています」

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「オオシマアコースティック」のロゴマーク。「You are what you eat.」という一文は、東日本大震災直後にツイッターで見つけたそうで、「くったもんにしかならん」と解釈。 三浦さんが現在へと至る“衝動”のひとつになったそう

現在、三浦さんは、農業の合間を縫って自宅1階の改装に勤しんでいます。自身が生産した農作物を中心に、島の山海の食材を使った農家レストランを開くためです。

「『WWOOF(ウーフ)』の仕組みを組み合わせた交流拠点を目指しています」と彼。「WWOOF」とは、「World Wide Opportunities on Organic Farms=世界に広がる有機農場での機会」の意味。有機農場において農作業に参加すれば、その対価として宿泊や食事の提供が受けられるというもので、その過程での「交流」に価値が見出されており、現在では世界60カ国以上に広がりを見せているそう。

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自宅1階は旧商店。1階部分で近々農家レストランをオープン予定

2016年1月、周防大島町で開催された「起業の島のプランコンペ」では、三浦さんの「WWOOF」と農家レストランを組み合わせた構想は、最優秀賞に選ばれ、島内でも大きな注目を集めることとなりました。

「世界を旅している外国人はとても知識が豊富。そんな人たちに出会い、多くの話を聞くだけでも大きな価値があるはずです。ビジネス云々というよりも、島の人、島を訪れた人、そして外国人が集う楽しい場所になれば、わたしたち家族としても最高です」

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レストランの内装、外装工事ともに三浦さんがほぼ一人で進めている

「景色を見てもメシは食えないが、救われたことはたくさんあります。ここ周防大島に身を置くだけでも大きな意味があるということです」と三浦さん。

2018年4月で、三浦さんが周防大島に移住して5年2カ月、そして、「半農半ラジオ」の暮らしが始まって2年4カ月が経過します。農業を軸に、二足の草鞋を履くことによって彼にもたらされたメリットが経済面だけに止まらないのは、前述したラジオディレクターとしての“新境地”が示すとおりです。

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オオシマアコースティック
半農半ラジオ
エフエム山口「COZINESS」(月~木、15:00~18:55) 水・木曜制作担当
雑誌「くるとん」(株式会社くるとん、年3回発行)ライター

三浦 宏之(みうら ひろゆき)さん

1973年生まれ、茨城県育ち。法政大学文学部在学中の1996年よりラジオ番組制作会社に勤務し、ディレクターへ昇格後、2001年からフリーランスへ転身。2006年以降はFMラジオ局J-WAVE子会社のJ-WAVE MUSICに所属する。2013年、山口県周防大島町へ移住し同年2月から2016年1月まで「地域おこし協力隊」として活動。同時に耕作放棄地を借り受け、「不耕起農法」による稲作ほか農作物を無農薬、無化学肥料での栽培に取り組み、「オオシマアコースティック」名義で販売も手がける。2015年12月より、農業のかたわら、エフエム山口にて番組「COZINESS」でラジオディレクターとしての活動を再開し、自身に「半農半ラジオ」のコピーを冠する。また、山口県東部地域を紹介する雑誌「くるとん」のライターを第47号(2016年6月発行分)より担当。現在は自宅を改装した農家レストラン開店に向けて、急ピッチで準備中。家族は、妻と小学生になる子ども2人。

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