山梨の伝統工芸品「甲州印傳」を受け継ぐ3代目の新たな挑戦
堀内 麻実
2019/02/06 (水) - 12:00

2018年冬、日本でたった一人の甲州印伝・伝統工芸士(総合部門)に認定された山本裕輔さん(35歳)。鹿革を加工した工芸品として100年以上の歴史を持つ、甲州印伝の魅力を現代に伝える「印傳の山本」の3代目です。そんな彼が考える、伝統技術の継承とそれを伝承する全く新しいカタチとは。そこには若き男、山本さんの圧倒的な努力が結ぶ新しい挑戦の姿がありました。

きっかけは、父が持ってきた「伝統工芸士」の盾

山梨県を代表する伝統工芸品のひとつ、それが柔らかくて軽い鹿革を加工した工芸品「甲州印伝」です。1941 年(昭和16年)に始まった太平洋戦争前、鹿革の製品は甲府市内各地で製造されていたそう。しかしながら、通気性の良い鹿革は、航空燃料のろ過に用いられることになり、一度その姿を消したといわれています。

戦後、再び鹿革が市場に戻ってきた頃、甲府には5軒の印伝の店ができ、再び産地として形成されました。江戸時代に考案されたという鹿革に漆を塗った特殊な技法が東京を中心に徐々に甲府の土産物として注目を浴びるようになり、のちに皮革製品としては唯一の伝統的工芸品として経済産業大臣より指定されています。

サムネイル

そんな甲州印伝を制作する会社は現在山梨県内に4社残っています。その中の1社が、1955年創業の「印傳の山本」。 日本でたった一人の伝統工芸士(総合部門)に認定されている山本裕輔さんが代表を務める会社です。

「生まれたときから、玄関を開けたところが製作工房で、 毎日手に触れる環境の中で育ちました。2代目であった父は、月の半分以上展示会等で県外に行っていて、帰ってくると黙々と製作をするという生活を送っていました。父が家にいないのは、幼い私にとって当たり前の暮らしでしたね。小学生のときはテレビゲームに夢中になり、将来はゲームのシナリオライターやプログラマーになりたいなんて思っていました。何をやっても器用にできない性格なので、父の仕事を継ぐことは全く考えていなかったですね」と幼い頃の思い出話をこんな風に話してくれた山本さん。

彼が中学2年生のある日、「伝統工芸士」の証となる盾を片手に父親が帰ってきます。「あっこれ欲しいな」 そのときの素直な感想は、この一言だったと山本さんはさらりと付け加えました。

サムネイル

こうして山本さんは、この日を境に、父親の背中を意識し始めるようになるのです。 「中学校卒業後すぐに父の元で修行することを考えていました。しかしながら、進学する同級生がほとんど。担任の先生の説得もあり、高校・大学へ進学することにしたんです。学生のときは、店の手伝いをする程度でしたね。その頃、自宅兼工房だったところから少しだけ離れた場所に店舗を構えたんです。でも、店に来るお客さんはほとんどいなくて1 週間に2人くれば良い方という悲惨な状態でしたよ」

高校卒業後、山本さんは神奈川県にある大学へ進学し経営学を学んだそう 。ものづくりを考えている人は、その道の専門学校または美術大学に進むことが多いなか、自身の将来を見据えて経営学を学ぶ大学を選んだといいます。

そして大学を卒業後、山本さんは正式に父の元で修行することになりました。ただ最初の2年間くらいは、ほぼ県外の展示会出張だったそう。

伝統工芸品「甲州印伝」の厳しい現状

元々お土産品として発展した甲州印伝は、いわゆる販売業者向けの商売をしてきました。しかし、 1980年代に2代目である父親が、自らの足で展示会等に出向き、消費者と直接やりとりをするやり方に変えたのです。当時は、大手百貨店等で物産展や展示会のイベントが流行りだした頃でもあり、父親の始めた印伝の新しい発信の仕方は好調な歩み出しだったそうです。

「私が父の元に入ったときは、ちょうど連日ニュースで百貨店の売り上げが下降しているという情報が流れていたときでしたね。展示会での売り上げも少しずつ落ち込んでいきました。そんな葛藤の中で私の不満や不安が溜まっていたんだと思います。百貨店任せの商売でいいのだろうか? もっと新しい切り口はないのだろうか? と考える毎日でした」

サムネイル

「たまに地元の店に帰っても店に客は全くいない。山梨の人に全く知られていないことがすごく寂しく感じたんです。 それは今後のためを思っても、良くないだろうという気持ちへと重なっていきました。そして、地元の記者クラブに自らの売り込みを始めたんです。『山梨で唯一の甲州印伝の伝統工芸士とその技術を継ぐ息子』そんな内容だったかと思います。すぐに連絡をいただき、メディアに取り上げてもらうことが出来ました。そこからは、徐々に取材対応にも力を入れ、まずは地元の人々に知ってもらうことにしたのです」

その後山本さんは、技術の向上を目指して製作をメインに担当。出張も以前の半分まで減らし店舗づくりに力を注いだのです。こうして、地元山梨で「印傳の山本」の名前が少しずつ周知され始めました。

サムネイル

その後、弟の法行さんも会社に入り、兄弟で甲州印伝の周知に奮闘していた矢先、父親が病に倒れてしまいました。約6年間の闘病生活の末、2018年、父親であり日本で唯一の甲州印伝の伝統工芸士、山本誠さんは亡くなりました。

「準備はしていましたからね。いまは、ただ父の残してくれた伝統技術を守りつつ、新しいことにもどんどんチャレンジしています。実は、甲州印伝はいまとても厳しい現状に置かれている状況だと感じています。印伝を制作する工房の4軒内2軒は、70歳近い職人さんがメインで切り盛りしている状況。いま、伝承していかなければ産地として絶えてしまう恐れがあるのです」

若い世代に向けた新しい挑戦

山本さんが背負ったものは予想以上に大きなものだったのかもしれません。それでも彼は2018年冬、亡き父親と同じ日本でたった一人の「伝統工芸士(総合部門)」に史上最年少で認定されました。

「不器用なので、ひたすら向き合うしかないんです。毎日まいにち真面目に淡々と努力すること。そうでなければ私には出来ない繊細な世界です。年齢が若いうちに伝統工芸士に認定されることで、同じ世代の方にも注目してもらいたいという思いがありました。 それから若い世代に印伝を知ってもらうために、キャラクターやゲーム会社とのコラボ商品も手掛けたりしています」

サムネイル

また、2013年からは他事業者と共同で、山梨で獲った鹿の革を使った製品「URUSHINASHIKA」のプロジェクトを開始しているそう 。

「沢山の製品をつくることは、まだ出来ていないのですが国産の鹿革を使った製品はとても珍しい為、既に嬉しい依頼もいくつかいただいています」

サムネイル サムネイル

「甲州印伝を使い手のオリジナル製品にカスタム出来るプランも積極的に取り入れています。本来の魅力である、軽くて柔らかくて丈夫で使い易いというメリットをそのまま残し、カラーやデザインがカスタム出来るという全く新しいオリジナルプランです」

「現在、私どもの店舗を訪れる人は、 30~40歳代が中心となっています。若い世代の方々にも注目してもらえていることが伝承の第一歩ではないかと思っているのでとても嬉しいです。今後は、もっと多くの方に、印伝を知ってもらい、触れてもらい、体験してもらえる場所づくりを考えています。若い職人がどんどん増えて、お互いに切磋琢磨しながら甲州印伝という伝統工芸品を沢山の人で守っていく環境が整ったまちになれば良いなと強く願っています。その為に私がやらなければいけないことは、おのずと沢山ありますよね」

これから自らが歩むべき道を一つひとつ確認していくかのようにゆっくりと力強い言葉で山本さんはそう話してくれました。決して多くのことを語るわけではないけれど、毎日直向きに印伝と向き合う山本さんの姿勢は、使い手に着実に浸透しているようです。お土産品であったかつての甲州印伝は、いまや大手企業も 注目するデザイン性の優れた製品へと変化しています。

サムネイル

衰退産業の後継者不足は、 日本の抱える大きな問題の一つでもあります。 誰かが繋がなければ絶えてしまうであろう、 先人の道を自らのやり方で守ることを決めた山本さん。伝統工芸品、 甲州印伝「印傳の山本」への期待はこの先もふくらむばかりです。

サムネイル

山本 裕輔(やまもと ゆうすけ)さん

1982年山梨県甲府市生まれ。地元山梨県で高校卒業までを過ごし、大学進学を機に神奈川県へ。大学卒業後、 2004年に家業である「印傳の山本」に入り、父親である伝統工芸士の山本誠氏の元で甲州印伝を学ぶ。 2015年「印傳の山本」の3代目に就任。現在、日本でただ一人の甲州印伝の伝統工芸士(総合部門)。

Glocal Mission Jobsこの記事に関連する地方求人

同じカテゴリーの記事

同じエリアの記事

気になるエリアの記事を検索