大手シンクタンクから、富士の江戸時代創業・老舗酒造経営者へ転身。 富士の麓から旨い酒を世界へ
富士錦酒造株式会社 代表取締役 清 信一さん
BizReach Regional
2017/07/28 (金) - 12:00

富士山を間近に望む静岡県富士宮市・柚野の里に、毎年春の蔵開きイベントに1万人以上の人が訪れるという蔵元があります。その名も「富士錦酒造」は、江戸時代から続く老舗の酒蔵。その18代目を継ぐ現社長・清さんの前職は、大手金融系シンクタンクのシステムエンジニア。東京から柚野へ。まったくの未経験から酒造の世界へ。伝統を守りつつも改革を重ねてきた20年の歩みと将来の展望をうかがいました。

大学でコンピュータを学び大手証券会社のシンクタンクへ

もともと私は理系で、大学も中央大学の理工学部。学科は今はもうなくなってしまった管理工学科で、いわゆる経営工学とITを一緒にしたようなところでした。学生時代に目指していたのは、自動車のエンジン開発。必須となってくるコンピュータ技術を大学では主に学びました。しかし就職の際、希望する業界の推薦が取れずに断念。金融系にはあまり興味がなかったのですが、世の中を動かす歯車の一番大きなところだと思い、大和証券のシンクタンク「大和総研」を志望。システムエンジニアとして入社しました。

入社後配属されたのは、大手生命保険会社のシステム系コンサルタントチーム。ちょうどその頃、第三次オンラインシステムの導入が盛んになり、金融界のファイアーウォールが取り払われつつあった過渡期。生命保険業界でもシステム系大改革が始まるということで、その構築を一手に引き受ける部隊でまるまる9年間を過ごしました。顧客管理のデータベースや勘定系を扱う非常に大きなプロジェクトで、失敗やトラブルが許されない日々。緊張感は半端なかったですね。

しかし、この時期学んだ物事の考え方や仕事の進め方は、経営に携わる現在、非常に役立っています。一つは、優秀な先輩方の薫陶の中で学んだ構造的かつ階層的な考え方。コミュニケーションを取りながら、できる、できない、いい、悪い、何をしなきゃいけない、そのために何が必要なのかをロジカルに判断し、構築していく思考ができるようになりました。
もう一つ、酒造りにも重要なチームワークの大切さを学んだのもこの時代でした。コンピュータのシステム構築は一人でやっているように見えますが、実は分業制。また、100点か0点か、結果が明確に出るジャッジの厳しさもある世界。チームの中で遅れている人がいたら応援したり、チーム同士がスムーズにリンクできるよう擦り合わせをしたり、連携プレーで円滑に動く重要性を体感できたのは大きかったです。

33歳でまさかの酒造業への転身。まずは、半年間大学でみっちり勉強

システムエンジニア時代に結婚をしたのですが、その年の年末のこと。12月30日の仕事納め後に帰宅した夕刻、訃報の電話がかかってきたんです。私の妻は江戸時代創業の富士錦という清酒を造る蔵元の娘で、当時専務として将来を託されていた義兄が、交通事故で亡くなったという知らせでした。

跡継ぎの兄が居なくなって以来、富士錦酒造がある静岡県・柚野に訪れることが頻繁になりました。そのたびに感じたのは、周囲のみんなからの「経営に入ってくれないかな」という期待の視線。それは痛いほどだったのですが、ちょうどその頃、私自身新しいプロジェクトがスタートしたばかり。サブリーダーにもなっていて、転身を自分で決断するまでに2年くらいかかりましたね。プロジェクトの終わりが見えた頃、意を決して家族全員で柚野の里に拠点を移すことになりました。

33歳でまったくの異業種への転身。思い起こせば、なかなか難しかったですね。その頃、酒の業界はベテランや職人肌の人が多くて、部下は全員年上。未経験の若造が入ってきても、何一つ聞いてもらえる土壌ではないだろうと思い、私も考えました。何も知らないでこの世界に入っても非常に失礼だし、まずい状況になると。そこで無理を承知で、まずは東京農大の醸造科学科に通わせてもらったんです。教授に直接事情を話し、できるだけ短い時間で沢山学びたいとお願いしました。醸造学、衛生学、発酵学、蔵元としての経営学、食品のマーケティングなど、2年分のカリキュラムをすべて半年間で学んだんです。

目的がはっきりしていたので、授業中は一字一句聞き逃さないよう勉強しましたね。大学生の頃にここまで熱心に学んでいたらとも思いましたが、4~7月までの4カ月間は、今から思い起こしても実に内容の濃い時期でした。大学終了後8月に柚野に引っ越し、再び9~10月は東京で泊まり込みの醸造実習という段階を経て、その年の11月に“蔵に入る”こととなりました。

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東京での経験をベースに、意識改革などイノベーションを推進

入社当時の私の立ち位置は、総務部長。製造から営業、製品作り、瓶詰め、経理などありとあらゆることに携わりました。2年ほど業務全体を把握する期間を経た後専務となり、それから本格的な社内改革を進めていきました。

酒造の世界は伝統的な風習も多く、世間では常識とされることを言ってもなかなか通用しない。「昔からこうだ」と言われるなど、正直ジレンマも多々ありましたね。そんな中で、新しい仕組みづくりや意識改革のための啓蒙を、少しずつ諦めないで続けていきました。時間をかけ、徐々に社員みんなが新しい方向に進んでいけるよう努力しました。

そんな新しい方向性へ向かう改革の第一歩は、私が専門分野としていたコンピュータの導入からスタートしました。コンピュータを使ってデータを共有すると伝票などのもれがない。お客様の傾向が明確に掴め、マーケティングに繋がる。フィードバックして分析していけるし、来年はこうなるといった予測もできる。そういったメリットを社員に理解してもらいながら進めていったためか、2年程で割とすんなり導入できました。

同時にセールスの形態においては、顧客を回って注文を取って配送する従来のルートセールスだけでなく、お客様に合った商品をご案内できる提案型へシフト。新しい営業スタイルを確立していきました。
さらに製造に関しては、後継者の育成に重点を置きイノベーションを推進。日本酒の醸造は非常に特殊な技術で、昔から杜氏制度というものが導入されています。これは、地方の農家の人が農閑期に出稼ぎで酒造りにやってくるというもの。今も岩手県の南部杜氏の方々と連携していますが、その技術をうちの社員もマスターするよう教育。導入したコンピュータを通じ、確実に継承していくことで、伝統的な技術を未来へ守り伝えています。

また、柚野という地域の特性を生かした酒造りを行うために、酒米作りにも自分たちで取り組んでいます。残念なことに農業後継者が少なくなってきている現在、毎年一件ずつくらい「おじいちゃんが亡くなって田んぼをやる人がいない」という相談を受けていて、当社で酒米の田植えをする農地も少しずつ増えてきています。社員一人ひとりが米作りのノウハウを知ることは地域貢献になり、ひいては柚野の環境を守ることに。個人個人が酒造りだけでなく、原料となる米作りのスキルを持ち、さらに広い視野をもつよう、これまで意識改革を徐々に進めてきました。

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今や集客数1万人超という「蔵開き」イベントの仕掛け人として

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富士錦酒造の改革の中で最もクローズアップされているのは、毎年春に行っている「蔵開き」イベントでしょうか。実は、私が蔵に入ってから会長に「やったらいいんじゃないですか」と、けしかけたのが始まりでした。第1回目は雨天で800人ほどでしたが、21回目を迎えた2017年は1万4000人の方が来場。最も多かった3年前には1万5000人と、子供も大人も家族みんなで楽しめる全国でも希有な蔵開きだと、ご好評をいただいています。地元の村おこしの会の協賛もいただき、趣旨を理解いただいた行政からも協力を得て、地域ぐるみの一大イベントとなってきました。目の前に迫る富士山の雄大な姿を眺めながら、田圃に敷かれたシートの上で、富士の湧水と米で仕立てた酒を飲み交わす。日本の原風景の中で過ごすのどかなひとときが、このイベントの魅力だと思っています。

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雨天になってしまうと赤字になってしまう年もあるのですが、回を重ね毎年この蔵開きを続けることで、お客様からのダイレクトな手ごたえがかなりありました。実はうちは以前、業務用の販売が非常に弱かったんです。蔵開きを通じて、「富士錦という酒がお客様の心に残ってくれればいいな」と思ったのがきっかけ。お客様から逆指名してもらえれば、お店のオーナーは断れないので注文してくれるのではないか。その狙いは当たり、エンドユーザーを刺激することで、マーケットを拓くことができました。業務用市場に食い込むことに繋がり、本当に毎年続けてきてよかったと実感しています。

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人の心に助けられる里暮らし。不便を楽しむライフスタイル

柚野に来た当初実感したのは、やはり買い物や交通が非常に不便なこと。でも、逆にその不便さを楽しく思えることも多かったですね。便利な環境にあった横浜時代にしなかったことを、ここではしなくちゃいけない。ということは、今まで経験できなかったことが、できるということ。生まれてはじめて飛び交う蛍を見たときは、その美しい光景に感動しましたね。そんな自然豊かな環境の中で子育てできたのは、本当に良かったと思っています。

近所の人たちがまとまっていて、みんなが顔見知り。都会だと隣に誰が住んでいるか知らないわけですが、こっちだとみんながみんなを知っている。そういう状況の中では「困ったら助け合う」という精神が自然発生的にできあがっているんです。この里では、人の心に助けられる。そういった精神的な楽さをしみじみ感じますね。こんなところが、不便さとはまた別の田舎暮らしの良さだと思います。小・中学校も同じような雰囲気でいじめなどもなく、生徒が少ないからこそ先生が緻密に指導。基礎的な勉強に子供たちがしっかり集中できるようになっているようです。

また、最近は柚野の近隣にも宅地が増え、移住してくる人が増えてきました。土地が安いからみなさん100坪単位の土地を買い、ログハウスなど自然に溶け込む暮らしに合った家を建てていますね。まず自分のライフスタイルを中心に考え、それから仕事を考える人が多くなってきた印象がありますね。固定した観点でなく、幅広い視野を持ちフィールドを広げていく。東京での経験があるからこそ、地方で活躍できるということは確かにあるでしょう。能力がある人が多く、ふれあうたび私自身も大いに気づきや刺激をもらっています。

富士山を望む柚野の里から、世界で愛される酒蔵を目指して

蔵元として「日本一愛される蔵になろう」が、社員みんなの合言葉です。蔵開きが一つのきっかけになって、家族みんなの思い出の真ん中に富士錦がある。そんなふうに、家族の共通アイテムとしての富士錦でありたいと考え、その延長線上として海外にも広めていきたいと考えています。
富士の水で造ったおいしい日本酒を世界中で楽しんでもらうことで、結果的に会社が大きくなってくれれば最高ですね。

私自身の半生を振り返ると、結婚するまでまったく知らなかった酒造という仕事に携わることになり、結果、非常にいい経験をさせてもらっているなという想いがあります。大和総研にいたときは非常にニッチな部分しか見ない専業的な仕事でした。日本特有の伝統産業でもあるし、逆に今や世界中から注目されるものとなった日本酒。酒蔵の経営という仕事に、ますます面白さを感じている昨今です。

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富士錦酒造株式会社 代表取締役

清 信一さん

神奈川県横浜市出身。中央大学理工学部・管理工学科卒業後、大和総研入社。生命保険会社の第三次オンラインシステムなどの構築にシステムエンジニアとして携わる。9年の勤務の後、妻の実家である富士錦酒造株式会社へ。元禄年間創業の老舗酒蔵を牽引する代表取締役として様々なイノベーションを推進中。

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