自分でしかつくれないイチゴをつくりたい。澳原いちご農園
(株)くらしさ 長谷川 浩史&梨紗
2018/03/26 (月) - 07:00

農家に長男として生まれますが、進学を機に実家を離れ、そのまま都会の企業へ就職。地方から若者が離れていく典型的な流れですが、澳原(おきはら)大介さんもまさにそんな道を歩んでいました。しかし、いまでは栃木県にある実家のいちご園の後継ぎとして、自分でしかつくれないイチゴづくりに精を出します。澳原さんが実家に戻ったきっかけとは?イチゴに賭ける若者の生き方を追います。

サッカーにあけくれた青春時代

1988年、栃木県北部の矢板市生まれ。高校まではサッカーにあけくれていたという澳原さんは、東京の短大へ進学。サッカー好きが高じて、就職先はなんと名古屋のプロフットサルチーム本拠地の運営管理でした。

「自分の好きなスポーツにかかわる仕事ができて、当時は楽しくて仕方ありませんでした」

実家は元米農家。父親の代になってから、ネギの露地栽培やウドのハウス栽培など野菜の生産も手掛けていました。そんな折、矢板市でイチゴを栽培しようという動きが、澳原さんの父親を含めた5~6軒の農家で始まります。栃木といえばイチゴの生産が盛んですが、主な産地は県南に集中しており、その頃、県北の矢板市でイチゴはまだつくられていませんでした。

「イチゴは繊細で栽培も難易度が高いので、父親はみるみるうちにイチゴ栽培にのめり込んでいきました。なによりイチゴは多くの人に喜んでもらえるので、つくり甲斐があったんじゃないでしょうか」

そんな父親の姿を見て育った澳原さんにとって、家業を手伝うという選択は決してマイナスなものではありませんでした。現に2012年、いちごの収穫が始まる直前に父親が病気で倒れたとき、迷いなくフットサルチームを退職。実家に戻っていちご園を手伝う決断が自然にできたといいます。

「それまでのあいだ、さんざん好き勝手させてもらいましたからね。今度は自分が恩返しする番だって思えました」

そのときまだ23歳でした。

家業を手伝いながら見出した、自分の介在価値

幸い父親は手術をしたら元気を取り戻し事なきを得ましたが、澳原さんはそのまま家業を手伝い続けました。そして、だんだんと本人もイチゴ栽培にのめり込んでいくことになるのです。

まず驚いたのが、イチゴの農薬使用回数の多さでした。多くの人からも好まれる作物というのは、虫などからも好まれるもの。多くの害虫から守るために、それだけ多くの農薬を使用する必要があったのです。

「農薬は使用する側にとってもつらい。なんとかして農薬の使用を抑えることはできないものか…」

模索し始めた減農薬栽培。そこでたどり着いたのが、イチゴのIPM栽培でした。

IPM栽培とは総合的病害虫・雑草管理(Integrated Pest Management)の略称で、化学農薬に依存せずに「病害虫」を予防・駆除する防除策を講じる栽培法です。

減農薬栽培が難しいとされるイチゴですが、栃木県の高根沢町にはこの栽培法で手掛ける農家がありました。澳原さんはすぐに門戸を叩き、教えを請いに行ったそうです。そして週2回、農業大学校にも通い、栽培の原理原則についても学んでいきました。

「とにかく病原菌が寄り付かない環境づくりが大切、ということが分かってきました」

熱、光、水、障壁等を使って病害虫の侵入や雑草の発生を抑える「物理的防除」、害虫を食べてくれる天敵や病原菌を抑える菌を利用する「生物的防除」、化学農薬以外で利用できる防除策はすべて実施していきます。

一般に天敵資材は化学農薬よりも高価なのですが、長年使用していくことで、結果的には安上がりで済むことも試算。父親も納得した上で天敵資材を導入していきました。

「なによりも大切なことは、圃場(ほじょう)巡回。自分の目で見てまわること。早期発見につながり、早期対策を講じることができます。それが最大の予防策です」

こうして徐々にイチゴのIPM栽培を確立。父親が始めたイチゴ栽培を、澳原さんが戻ることで進化させていったのです。

父親から独立し、自身で経営する

そのまま父親と共に農園を切り盛りしていくわけではなかったのも、澳原さんのユニークな選択かもしれません。それまでつくってきた「とちおとめ」を父親が手掛け、新品種「スカイベリー」を澳原さんが手掛けることで、完全に経営を分け、父親からのれん分けすることにしたのです。

「父親と一緒だと、どうしても手伝っている感覚で、経営面は頼ってしまいます。独立することで、経営感覚も身に付くし、なによりも覚悟をもって臨めるかと思いました」

2016年、「澳原いちご農園」として独立。20a(アール)の園地に、新たにスカイベリー用のハウスも建てました。あえて大きく展開することで、人も雇えるようになり、自身の時間もコントロールできるようにしたのです。

ちなみに「スカイベリー」とは、いちご王国栃木県が威信を賭けて開発し、2014年に品種登録されたばかりの新品種です。

それまでいちご王国を支えてきたのは「とちおとめ」でしたが、育成者の権利が切れ、いまでは全国どこでもつくることができるようになっています。他県からも福岡の「あまおう」、静岡の「紅ほっぺ」、佐賀の「さがほのか」と、次々と、とちおとめよりも大粒で高値のいちごが流通するなか、満を持して誕生したのが、 約900の組み合わせを交配し10万株のなかから選抜された「スカイベリー」でした。

ほどよい酸味と甘みのバランス良い「とちおとめ」に対し、「スカイベリー」は大粒で甘くてジューシー。どちらかというとスカイベリーが注目されているといいますが、顧客からとちおとめが欲しいという要望があった場合は、父親から仕入れることで対応しているんだそうです。

経営は独立しても、そこはやっぱり家族。時に父親を手伝い、家族としてのメリットを生かしながら、支え合っています。

イチゴを一番美味しく食べてもらうために

澳原さんの朝は早い。まだ暗いなか起床し、日の出と同時にイチゴの収穫を開始。できるだけその日のうちに出荷しています。

「日の出という時間帯は、その日に収穫したイチゴを翌日にはお客様の元へ届けるベストな時間帯なんです」

というのも、イチゴは青いうちに収穫しても、日を追うごとにだんだんと赤く色づいていきます。スーパーなどに並ぶイチゴは、店頭に並ぶ頃に赤くなるよう、まだ少し青いうちに収穫しています。ただ、イチゴ本来がもつ「甘み」は、収穫時のまま変化しないそうです。澳原さんが収穫するのは、赤く完熟したイチゴのみ。甘みの乗り切ったイチゴを、新鮮な味わいのまま食卓へ届けるためには、日の出とともに活動するしかなかったのです。

名古屋で働いていたころよりも、圧倒的に朝方人間になったという澳原さんですが、その生活はつらくないといいます。

「自分が食べたいイチゴ。それが極力、化学農薬が使われていないものであり、完熟で甘みの乗ったもの。それを追求しているだけなので、つらくはないですね」

いつの間にかイチゴづくりに没頭していた澳原さんは、いまでは食育にも取り組み、子どもたちへ食農体験を企画、開催しています。植え付け、栽培管理、収穫を通して、「食べ物をつくること」と「生きること」の接点を見つけて欲しいと話します。

「僕自身、イチゴ栽培を通じて、さまざまなことを学び、可能性と将来性を感じました。それが子どもたちだったらどうなんだろう? もっと多くのことを学び、いろいろな感性を引き出すきっかけになるんじゃないかと思いまして」

子どもたちにその魅力を伝えたいと思うほどにまで、農業にはまっていった澳原さん。一見、サッカーとは全く別のことのように感じますが、共通している部分があるといいます。

「サッカーもイチゴも、お客さんに喜んでもらうというのは一緒なんです。子どもに対して何か感じ取ってもらうことも同様。人見知りな僕ですが、こうして人に喜んでもらうのが何よりの生きがいなのかもしれません」

澳原さんにとっては、サッカーやフットサルといった興業を通して追求していたことが、農業というアプローチに変わっただけということでした。

働く場所や仕事の内容というのは、まったく違うように思えても、根本で変わらないものがありそうです。それを見つけることが、自身が一番幸せに働ける秘訣なのかもしれません。

澳原 大介(おきはら だいすけ)さん

1988年、栃木県矢板市生まれ。東京の短大へ進学後、サッカー好きが高じて、名古屋のプロフットサルチームへ就職し、ホームコートの運営管理に従事。2012年、父親の病気をきっかけに帰京し、実家のいちご園を手伝う。父親と共に「とちおとめ」をつくる傍ら、2016年、父親から独立し澳原いちご農園を開園。栃木県の新品種「スカイベリー」の生産に精を出す。

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