5406_main.png
今も受け継がれる真田幸村と九度山町の社会起業
SELFTURN ONLINE編集部
2019/01/22 (火) - 08:00

歴史に名を残す人物たちの意外なSelf Turnについて学ぶ「あの人の、セルフターン」。第5回は、2016年に放送されたNHK大河ドラマ『真田丸』であらためて脚光を浴びた戦国武将の真田幸村を取り上げます。

藩主になった経験もない真田幸村が日本史上にくっきりと足跡を残しているのは、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康を2度にわたって震え上がらせたからに他なりません。関ヶ原の戦い直前の「第二次上田合戦」と有名な「大坂冬の陣」で徳川家に苦渋を舐めさせています。

ただし、和歌山県の九度山町において、幸村は別の角度から尊敬されています。家康の手によってこの地で14年にも及ぶ“追放生活”を過ごした幸村は、真田家に伝わる縦糸のみで紐を織り込む「真田紐」という技術を残していきました。今、九度山町では400年以上前に幸村が小さな集落から日本全国に広めた「真田紐」で地域をより活性化させようという試みが行われています。幸村は結果的に地元に産業をつくる「社会起業」に貢献したといえるでしょう。

和歌山県の九度山・真田ミュージアムで副館長を務める中野正藏(なかの・しょうぞう)さんが、幸村の働き方や生き方、国許から遠く離れた14年間でいかにしてその山里で手工業を発展させたかなどについて教えてくれました。

5406_sub1.jpg
イラスト:Maki Kanai

上杉家や豊臣家の人質として忠誠心を育む

真田幸村の父、昌幸が二代目として重視したのは真田家の存続でした。そのために武田家、織田家、上杉家、北条家、徳川家、上杉家、豊臣家と次々と主君を替えていきます。現代でいえば、中小企業の社長が組織の繁栄を願って、より大手の企業を取引先に選んでいく、という働き方に近いと考えていいでしょう。

その無節操さから豊臣秀吉に「表裏比興之者(ひょうりひきょうのもの)」という異名を授かった昌幸ですが、家臣の誰一人として反旗を翻しませんでした。九度山・真田ミュージアムの中野正藏さんはこう話します。

「昌幸は『智』『仁』『勇』の武将でした。戦国乱世を生き抜くだけの戦略や英知、人を大切にする人情味あふれる心、物事を恐れない勇敢さを持っていました。主君を替えながらも側近たちを魅了したその生き様には、次男の幸村も大きな影響を受けています」

5406_sub2.jpg
九度山・真田ミュージアムの中野さんは「幸村は武士として節操を守る気持ちが強かった」と話す

実際、戦国乱世をくぐり抜けるために転々と主君を替える父の戦略によって、幸村の人格が形成されていきます。幸村は18歳のときに上杉景勝(かげかつ)の人質として、21歳のときには豊臣秀吉の人質として送られます。当時の人質は忠誠を尽くして臣従する証として主君の近くに滞在し、出仕しつつ、自らの家を代表して主君に加勢するという存在でした。若き幸村は景勝からは所領を与えられ、秀吉からは豊臣姓を下賜されるという厚遇を受けています。

「幸村の性格については、兄の信之が『生得の行儀振舞が優れており、並みの人間と異なる部分が多かった。柔和で辛抱強く、威丈高になることもない。寡黙で怒りを表さず、いわば国郡を領する誠の侍というべき者であった』と述べています。こうした誠実な人となりは、人質として主君に臣従するなかで育まれたといえるでしょう」

配流生活を支えた「真田紐」は今、地域を活性化

実のところ、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」として名を残す幸村の人生は、その大半が歯を食いしばるような苦難のときでした。

1600年、昌幸と幸村父子は石田三成率いる西軍につき、関ヶ原の戦いで敗戦。勝利した東軍の徳川家康からの処分によって、現在の和歌山県である紀州の高野山への配流が科されます。表舞台から追放された昌幸と幸村は、当時の高野山が女人禁制だったこともあって、ほどなくふもとの九度山村で生活を送ることになります。

当時の九度山村は人口わずか250名ほど。寒村に幽閉された昌幸と幸村の生活は困窮を極めました。監視役の紀州浅野家から毎年50石の米が支給されていたものの、父の昌幸が三男の昌親(まさちか)に生活費を催促する書状を送るほどの状態でした。

5406_sub3.jpg
九度山で昌幸と幸村が閑居した屋敷跡には現在、真田庵(善名称院)が建てられている

「不自由な生活に追い込まれた幸村たちは周辺でとれる川上木綿を使い、平たい紐をつくって堺や泉大津の行商たちを通して生活の足しにしていたという話があります。もともと真田家には縦糸のみで紐を織り込む技術があり、伸縮性がなく丈夫な紐は真田家の武具や甲冑に使われていました。行商人たちが『徳川家を追い詰めた昌幸と幸村父子のきずなのように強い』という売り文句を使い諸国で売り歩いたためか、『真田紐』という名前が定着したともいわれています」

5406_sub4.jpg
5406_sub5.jpg
幸村たちがつくったとされる真田紐の技術は現在も九度山に残る。「真田紐工房」では真田紐織り体験もできる

「真田紐」は現在、九度山町の地域活性化事業の一つとなっています。町民の有志たちが「真田紐工房」で真田紐のストラップなどを製作。商品を販売するだけでなく、紐織り体験も実施し、観光を盛り上げています。高野山を訪れた外国人観光客が九度山町に立ち寄り、真田紐を購入していく機会も増えてきているとのこと。幸村が九度山に残した技術は今、九度山町を支える伝統産業となり、世界でも受け入れられています。

5406_sub6.jpg
圧縮して織るため伸びにくい真田紐は長きにわたって重宝されてきた。木箱の箱紐として使い始めたのは千利休だといわれている

主君を裏切った家康を倒すべく、日夜新しい軍学を学ぶ

幸村たちに引導を渡した徳川家は、本来であれば「五大老(ごたいろう)」という合議制の筆頭として、豊臣秀吉の息子、秀頼(ひでより)を支えるべき立場にありました。しかし家康は、徳川家が将来にわたり天下を支配し続けるためには、豊臣家の勢力を排除しておく必要があると考えます。

幸村が忠誠を尽くした秀吉の命に背き、家康が豊臣家に対する圧力を一層強めると、豊臣家と徳川家の対立は避けられないものになります。幸村にとって、主君を裏切った家康は許せない存在だったのかもしれません。「真田紐」で生計を支えるかたわら、幸村は来たるときに備えて着々と準備を進めていました。

「当時、文化の中心は寺院でしたから、最新の兵法書がたびたび高野山に届けられていました。その手前の九度山で幸村たちは兵法書を手に入れ、日夜新しい軍学を学び、大砲や新式火器の工夫に努めていたともいわれています。また、紀ノ川の使用を許されていたので水馬の訓練も行っていたようですし、九度山での生活から11年後、父の昌幸は死の間際に幸村に向かって『徳川は必ず豊臣の大坂城を攻め立ててくる』と伝え、必勝法を授けたという逸話も残っています」

1600年から九度山で閑居生活が始まってから14年。幸村のもとに豊臣家から協力の依頼が届きます。

すでに江戸幕府を開いていた家康にとって、まだ力のある豊臣家は目障りな存在でした。家康が圧力をかけると、これに怒った豊臣家は徳川家との正面衝突も辞さず、関ヶ原の戦いで敗れ牢人となっていた西軍の武将たちを呼び寄せたのです。

「幸村と一緒に大坂城に入城したのは300人ほど。正式な家臣は数名しかいませんでした。九度山で生活するなかで、幸村は地元の村人や猟師、地侍とも分け隔てなく交流しており、その誠実な姿が人々の心を打ったようで、彼らが幸村を支援すべく大坂城に入城したのです。『柔和で辛抱強く、威丈高になることもない。寡黙で怒りを表さず、いわば国郡を領する誠の侍というべき者であった』幸村は、まさに理想的なリーダーだったのでしょう」

正式な家臣が少ないなか、苦難にもくじけず徳川の大軍を退ける

1614年12月、「大坂冬の陣」では幸村の策が功を奏します。大坂城に立てこもり徳川家を迎撃する案を主張する籠城派に対して、幸村は城外での戦さを提案。大坂城の防衛態勢の一環として、大坂城の南側に「真田丸」という出城を築き上げます。

そして3000人ほどの牢人衆を率いて、「真田丸」から1万2000人ほどの徳川軍を射撃。雨のように飛んでくる銃弾に苦しむ惨状を聞いた徳川家康は撤退を指示せざるを得ませんでした。正式な家臣が少ないにもかかわらず、苦難にあってもくじけず、天下人となっていた徳川家康率いる大軍を退けた「真田丸」の一戦は、幸村の「智」「仁」「勇」が凝縮された勝利でした。

5406_sub7.jpg
若いときを人質として過ごした幸村は忠誠心が強く、父の昌幸からは「智」「仁」「勇」を受け継いだ
5406_sub8.jpg
九度山時代、幸村が姉婿にあてた手紙。「去年から急に年寄り、ことのほか病身になってきました。歯なども抜けましたし、ひげなども黒いとことはあまりなくなってきております」と記している

「このとき、家康は幸村の能力を高く評価し、勧誘工作に乗り出しています。しかし、幸村は十万石の領土、そして信濃一国という破格の条件を提示されても、首を縦に振りませんでした。幸村にとっては、報酬ではなく、14年も表舞台から姿を消していた自分を必要としてくれた豊臣家のために粉骨砕身し、誠の武士として義を貫くことこそが重要だったと考えられます」

幸村最期の戦いは「大坂夏の陣」。劣勢を強いられた豊臣軍にあって「奇襲によって家康を討つしかない」と決断した幸村は徳川本陣に突撃しますが、道半ばで討ち取られてしまいます。それでも幸村の襲撃を知った家康は慌てふためき、一度は死を覚悟したと伝えられているほどです。

5406_sub9.jpg
真田家が家紋に用いた六文銭は「三途の川への渡し賃」。命を惜しまず戦う「不惜身命」の意味が込められているといわれている

幸村が歴史に名を残したのは、天下を取った家康をあと一歩まで追い詰めたからに他なりません。その根底には、封建社会だった戦国乱世にあって、いかなる苦難にあってもくじけずに主君のために尽くし、自らの志操を貫くという美学がありました。つまり主君に忠誠を誓い、周りの人間にも忠誠を誓われるような、誠実で、勇敢で、義理堅い働き方こそが幸村の最大の魅力といっていいでしょう。14年にも及んだ“追放期間”にもめげず「真田紐」というビジネスの種を後世に残し、再び自らが必要とされるときに備えて自己研鑽を怠らなかった姿勢も、紆余曲折が少なくないビジネスパーソンにとっては、生き方の一つの見本になるはずです。

5406_sub10.jpg
昌幸が家臣に与えた具足。手首やひざ、足の付け根などには固く締まる真田紐が使われている
5406_sub11.jpg
中野さんの後ろに見えるのは、幸村が所有したと伝わる「鉄二枚胴具足」

文・写真=菅野浩二 Koji SUGENO

profile_nakanoshozo.jpg

\教えてくれた人/

中野正藏(なかの・しょうぞう)さん

和歌山県九度山町生まれ。40年ほど前から九度山町職員として勤務しながら町の歴史研究に励む。九度山町教育委員会で勤務後、2015年4月から九度山・真田ミュージアムの副館長を務める。

九度山・真田ミュージアムの情報は下記のとおり。
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山1452-4
TEL:0736-54-2727
FAX:0736-54-2737
アクセス:南海高野線・九度山駅から徒歩10分
開館時間:午前9時〜午後5時(最終入館 午後4時30分)
休館日:月・火曜日(祝日の場合は営業・翌平日休館)
年末年始(12月29日〜1月3日)
HP:https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/

Glocal Mission Jobsこの記事に関連する地方求人

同じカテゴリーの記事

同じエリアの記事

気になるエリアの記事を検索