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休眠していた酒蔵を復活させ、新たな酒造りへ挑む。若き造り手、三好隆太郎氏
兼行 太一朗
2018/11/20 (火) - 08:00

内装デザイナーから酒の造り手への転身という異色の経歴、さらに34年前に製造を休止した実家の酒蔵を復活させての酒造り―。山口県の北東部、阿武(あぶ)町の奈古(なご)という海辺の小さな町で、蔵の主、そして造り手として酒造りに挑むのが、三好隆太郎さん(33)です。2014年に帰郷し、1915(大正4)年より続く「阿武の鶴酒造」に再び火を灯し、新銘柄「三好」とともに歩みを始めました。

暮らしの中に寄り添う、一人一人により身近なものづくりを求めて

山口県北東部の日本海側にある阿武町は人口約3,400人の小さな町で、「阿武の鶴酒造」は同町の中心地・奈古地区に立地しています。1915(大正4)年の創業以来、看板銘柄「阿武の鶴」を醸造していましたが、全国的に日本酒の消費が大きく低迷していた最中の1983(昭和58)年、隆太郎さんの祖父で4代目にあたる桂太郎さんが自社醸造の休止を決断。以降は酒造りを外部委託に切り替え、販売のみの業態へと移行していました。

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昔ながらの風情を残す奈古の町並みの一角に佇む阿武の鶴酒造

隆太郎さんも家業を特別に意識することはなく、東京の大学へと進学し建築を学んだ後にそのまま就職。大手アパレル会社で、内装デザイナーとして新規出店の仕事に携わっていました。
「内装デザインという仕事は、来店する多くのお客に対してのもの。仕事をするうちに、もっと人に近い暮らしの中にあるもの、身近に馴染むもの、一人一人に対して喜びを与えるようなものづくりをしてみたいと、強く思うようになりました」と隆太郎さんは振り返ります。

「自身が求めるものづくりとは何だろう…」と、いろいろと考えた先に辿り着いたのが酒造りでした。「実家が醸造を営んでいたというところが、やはりきっかけになっています。ただし、『継ぐ』という意識はそもそもなかったんですよ」

2008(平成20)年にアパレル会社を退職後、酒造業者の求人を頼りに千葉県の蔵元へ。酒造りに携われるのなら「どこでも」と、当時は帰郷を深く重く考えることはなかったといいます。

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創業以来、同酒蔵の看板を背負ってきた「阿武の鶴」。1983年以降は委託醸造されていた

造り手として自身の酒を醸すべく、6代目として休眠中の酒蔵を復活

隆太郎さんは、さらに埼玉県、岐阜県、青森県の蔵元を渡り歩き、実際に現場で働きながら、また杜氏に直接教わりながら酒造りを学びます。最初の千葉県の蔵元への就職から数えて6年後の2014(平成26)年、自身の酒を醸すにあたり帰郷し、休眠状態にあった実家の蔵を生かそうと考えたのです。

しかしながら、阿武の鶴酒造での醸造は34年前に休止しており、蔵の中は30年以上時が止まったまま。三好家の倉庫としても扱われており、およそ1年間は蔵内の整理に忙殺されたといいます。

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広大な土蔵と敷地の一角を整備し、なんとか醸造スペースを捻出

「かなり片付けましたが、昔の設備や器具がまだまだたくさん残っています。どの工程で何のために使用していていたのか分からないものもあるんですよ」と隆太郎さん。

さらに頭を悩ませたのが食品衛生許可証を取得するにあたっての設備上の問題で、昔ながらの土蔵が現在の設備基準を満たしておらず、その大半が使用できないことが判明したのです。一部を改修するなどして当面の醸造スペースを捻出し、なんとか許可証取得に至ったのだとか。

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土蔵の一部を改修して設けられた仕込みスペース。内部に醸造タンクが並ぶ

また、帰郷後に協力者が次々に現れたのも、蔵の復活に拍車をかけました。その一人が、山口県内でも有数の人気銘柄「東洋美人」の醸造元で、隣の萩市に蔵を構える「澄川酒造場」の澄川宜史(すみかわたかふみ)さん。

澄川さんの計らいで、澄川酒造場において醸造タンクを使用させてもらえることになり、2015(平成27)年の酒造年度(2015年7月1日から翌年6月30日まで)において、1シーズン前倒しで自身の酒を醸すことができたのです。

「6年間、各地の酒蔵での修業が長かったとか短かったとか、そういう意識はありません。修業期間も、山口への帰郷も、そして澄川さんを初め、ご協力をいただいたみなさんとの出会いも、必然のタイミングでの巡り合わせだったのだと考えています」

そして、澄川酒造場において隆太郎さんが醸したお酒は、阿武の鶴酒造による代々の醸造方法によるものではなく、各地の蔵元で6年間にわたり修業を積んだ“造り手・三好隆太郎”が自身の技術や考えをもって醸した初めてのお酒でもありました。

継承ではなく蔵の新生。新銘柄「三好」に込める思い

2016(平成28)年の醸造年度においては、いよいよ休眠していた蔵での醸造に挑んだ隆太郎さん。実に34年ぶりに自社醸造の「阿武の鶴」が醸されるに至りました。そして、家名である「三好」を冠する新銘柄を新たな看板商品とすべく同時に立ち上げたのです。

新銘柄は20以上の候補があった中からあえて「三好」に決定。酒造りにおける三つの材料「米、麹、水」、商売において重要な三者「売り手、買い手、世間」の調和を願って選んだといいます。

ラベルはデザイナー時代の人脈を生かし、東京のデザイン会社に制作を依頼。数字の“一”を“三”つ並べ、「一つ一つの素材を丁寧に扱う」「一つ一つの醸造工程をより丁寧に」「最後の一滴まで美味しく味わえるお酒」をイメージしているのだそう。

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▲ラベルのデザインは2016年12月に「Tokyo TDC Annual Awards 2017」(美術団体・NPO法人 東京タイプディレクターズクラブによる国際デザインコンペ)でパッケージ、ロゴ、広告各部門で入選、2017年6月には「SAKE COMPETITION 2017」(日本一美味しい日本酒が決定される世界最大規模の利き酒イベント、SAKE COMPETITION実行委員会の主催)のラベルデザイン部門において、全国453蔵1753点出品中7位に表彰されるなど、「三好」の周知に大きく貢献している

「本当にたくさんの人に支えられていると実感しています。酒米の蒸し器や冷却装置など、中古品を格安で譲ってもらったり、他の酒蔵に貸してもらったり。特に、仲間意識が強い、山口県内の酒造業における先輩の皆さんには大きく助けられています。美味しい酒を醸してこそ恩返しになるはず、しっかり頑張りたいです」

2017年5月時点で、阿武の鶴酒造における醸造タンクは4本、1升瓶にして約4,000本分。酒造りに携わるのは造り手である本人・隆太郎さんただ一人であり、まさに蔵元として、そして造り手としてスタートラインにたったばかりといえます。

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仕込みスペース内のタンク。いずれは20本まで増やすのが目標

「いずれはタンクを20本まで増やしたいですが、現段階においては製品として成り立つお酒を醸造することが先決で、まずは安全で安心できる品質を第一に意識して酒造りに取り組んでいます。基本、基礎を大切にして、日本酒の『王道』といえるようなお酒を醸していきたいです」

郷土への思い。将来は日本酒をツールに阿武町を全国に発信

日本海沿岸部の漁業と、内陸部の農林業が主要産業である阿武町。高齢化率は4割強(2015年国勢調査より)に達し、若者の多くが進学、就職で町を離れているのが現状です。そんななか、隆太郎さんには、地域における若手事業者として大きな期待がかかるのも当然です。

「仕込み水は蔵の井戸水、酒米は町内の棚田で栽培されている山田錦を使うなど、郷土・阿武産であることも強く意識しています。『阿武の鶴』『三好』を通してぜひ阿武を知ってもらいたい。県内外への発信において、意味のあるツールになるようなお酒造りをしていきたいです」と隆太郎さん。

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酒蔵から車で10分の場所にある酒米の栽培地「木与(きよ)の棚田」

「お米という貴重な素材を最大限に生かし、楽しく飲める“人に近い”お酒を」という三好さんの手によって新しく生まれ変わった「阿武の鶴」と、新銘柄「三好」。休眠していた酒蔵を復活させた若き造り手と、その手によって醸される酒に関心を抱き、はるばる東京などから阿武町へと足を運ぶ業界関係者も少なくありません。阿武町に阿武の鶴酒蔵あり―。三好隆太郎という杜氏によって醸される酒は、町の魅力の一つとしてすでに輝きを放ちはじめているといえます。

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阿武の鶴酒造合資会社 造り手

三好 隆太郎(みよし りゅうたろう)さん

1983年、山口県阿武町生まれ。東京の大学で建築を学んだ後、デザイナーとして大手アパレル会社に勤務し、新店舗の内装デザインを手がける。2008年、24歳で退職後、千葉県、埼玉県、岐阜県、青森県の4酒蔵を渡り歩き、酒造りについて学ぶ。2014年、34年間休業状態にあった実家・阿武の鶴酒造での醸造を復活させるために帰郷。2016年、造り手として同酒造での醸造を開始し、新たな看板銘柄「三好」も立ち上げた。

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